生まれ、旅、著述
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マスウーディー自身が語るところによると、自分はバグダード生まれで、預言者ムハンマドの教友(サハーバ)であったアブドゥッラーフ・イブン・マスウード(アラビア語版)の子孫だという。前歴で他に知られていることはほとんどない。マスウーディーは旅に行った先々で多くの知識人・学者とかかわりを持ったとするが、彼自身に関することは彼の著作に依拠するよりほかない。マスウーディーの旅の記録を全て鵜呑みにしてはいないながらもShboul (1979)が控えめに語る次の言及は印象的である。 マスウーディーの旅は、少なくともヒジュラ暦303年(西暦915年)から亡くなる直前まで、実に彼の生涯のほとんどを占める。旅行先はアルメニア、アゼルバイジャン地方、カスピ海ほとりの各地を含むペルシアのほとんどの州。さらにはアラビア、シリア、エジプトも。インダス川流域だけでなくさらにその先のインド亜大陸の西海岸まで足を延ばしている。東アフリカへは一回のみならず何度も往復した。航海した海もインド洋のみならず、紅海、地中海、カスピ海も。 — Shboul (1979, pp. 3-4) 研究者によっては、マスウーディーがスリランカと中国にも行ったとする。マスウーディーの著作を英語に翻訳したLunde & Stone (1989)は、その翻訳書の序文で、マスウーディーはペルシア湾岸で出会ったアブー・ザイド・アル=シーラーフィー(Abu Zaid al-Sirafi)という人物に、中国についていろいろと教えてもらったと書いている。また、シリアでは、かつて東ローマ帝国の提督であってイスラームに改宗したトリポリのレオという人物に会い、東ローマ帝国のことについても多くの情報を得た。亡くなるまでの数年間はシリアとエジプトで暮らし、エジプトでは、アンダルシアの司祭が記録したというクローヴィスからルイ4世までのフランク王国の王の名前の一覧を手に入れた。 マスウーディーがイスラーム文化圏内の、さらにはイスラーム圏を超えた地域までの旅行をどのようにして可能にしたのかについては、よくわかっていない。Lunde & Stone (1989)は、マスウーディーが他の多くの旅行者と同様、貿易に携わっていたか又はその関係者であったのではないかと推測する。『黄金の牧場』には終わり近くに次のように書かれている。 小生がここに纏めた見聞は、長年にわたり東西を行き来し、イスラーム世界を超えたところにある幾多の国々まで苦しい旅をしてお調べしたことの成果でございます。言うなれば、あらゆる種類と色の真珠を見つけ、首飾りに仕立て上げて初めて手に入れることが叶ったようなものですから、手に入れたお方はくれぐれも丁寧にお取扱いくださいますよう。小生の意図したところは、多くの国々へ赴いて、そこの歴史を明らかにすること。それだけでございます。 — http://www.saudiaramcoworld.com/issue/200502/the.model.of.the.historians.htm> Shboul (1979)によると、マスウーディーが『黄金の牧場』を書き直したことに留意すると、現代には947年より古い版だけしか伝わっておらず、956年に改定された版が現存していない可能性がある。マスウーディー自身が『忠告と監督の書』で語るところによると、『黄金の牧場』の改訂版は全部で365章あると書いているという。
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