生まれと育ち
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1902年(明治35年)5月1日、当時の鹿児島県囎唹郡岩川村(岩川町、大隅町を経て現在の曽於市の一部)に、父斎藤斉(さいとうひとし)と母岩崎たねの間に生まれる。父は宮崎県西諸県郡小林村(現在の小林市)出身の人物で、岩川の種畜場に来て働いているうちに岩崎たねと結婚したが、酒飲みであることをたねの両親に嫌われて與八郎誕生後まもなく離縁され、與八郎は岩崎姓で育つことになった。父親は、與八郎が小学生のうちに死去している。 たねの母親は、江戸時代に名主の下役の名頭をしていた名家の生まれで、その実家からの援助でたねは岩川に「みどり屋」という旅館を買って経営し、1人で與八郎を育てた。このため父親がいなくても金銭的に不自由するというほどのことはなかった。ただし、岩川には旧制の中学校が存在していなかったため、岩川尋常高等小学校高等科を卒業し1917年(大正6年)3月に14歳で社会に出ることになった。高等科卒業前に熊本陸軍幼年学校を受験したが、学科試験をパスしたものの身体検査で肋膜の疑いがあるとされて落とされている。
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生まれと育ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/29 14:54 UTC 版)
1939年東京の中心に近い飯田橋に鉄道員の7番目の末っ子として生まれた。一時病気を患ったこともあり、運動能力はあまりなかったが、勉強はよくでき、東京の一流の高校に入学できた。高校では急性腎炎を罹患したが、日本文学の古典に興味を持ち、それゆえ京都に憧れがあった。当時は就職難もあり、医師であって文学の仕事をした人を考え、文学志望から医学に切り替えた。大学は京都大学で、そこで、謡と仕舞を習い能にも興味があった。皮膚科の太藤(おおふじ)重夫教授に惹かれて、皮膚科に入局した。その前にインターンは東京だったが、東京大学に入学しようとしたら、医局長の宮本正光は京都大学を勧めた。1964年、京都大学医学部卒業。1965年 - 1969年、京都大学大学院研究科。1966年 - 1968年、米国ペンシルヴェニア大学皮膚科研究員、1969 - 1970年、国立京都病院医員、1970 - 1977年、京都大学附属病院助手。1974年、京都大学医学博士。論文の題は「局所ステロイド塗布の皮膚にたいする影響」
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