生まれながらの活動屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:33 UTC 版)
1908年(明治41年)、牧野正唯は、父・省三が映画製作を始めた年の2月29日に京都府京都市上京区で生まれた。 幼少のころは父が撮影所長を務めていた日活で子役として働いていた。小学校の同級生に後のカメラマン宮川一夫がいた。「映画に専念しろ」という父に反発して京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)に進学した。しばらくは一商のラグビー選手として活躍し、1925年に開催された第8回日本フットボール優勝大会で全国制覇に貢献。のちの映画監督の久保為義、山中貞雄らがいた。 17歳のとき、赤痢にかかり、病床に伏したことを機に高校を退学、父が所長を務める東亜キネマ等持院撮影所で、今度は助監督として駆り出されるようになった。やがて父の興したマキノ・プロダクションで、18歳のとき、富沢進郎の共同監督として『青い眼の人形』で監督デビューを果たした。 山上伊太郎の脚本による『浪人街 第一話 美しき獲物』は1928年(昭和3年)のキネマ旬報ベストテン第1位に輝き、『崇禅寺馬場』が4位、『蹴合鶏』が7位を勝ち取った。翌1929年(昭和4年)には『首の座』で2年連続第1位、『浪人街 第三話 憑かれた人々』も3位に入選した。ところが、正博の監督した作品は評論家や左翼青年からは高い評価を得たものの興行的には失敗であった。1929年(昭和4年)、父の陣頭指揮のもと、トーキーの研究にとりくみ、同年7月5日、マキノ・プロダクション第1回トーキー作品として、日本初のディスク式トーキーによる監督作『戻橋』を発表する。そのわずか20日後、同年7月25日、父・省三は、37万円という今の金額に換算すると数億円とも言われる、巨額の負債を負ったまま死去する。 正博はマキノグループが抱える37万円の借金を返済すべく、自らが陣頭指揮を執って娯楽作品を次々と世に送るが、かえって経営は危機に瀕して、数度のストライキや撮影所全焼という不幸が重なり、ついにマキノプロを引き払って、1932年(昭和7年)にひとまずは日活に入社。しかし、ここでも不況下の首切りによるストライキが起こって撮影が一向に進まず、正博も間もなく会社から解雇される。
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