生まれと初期の政治活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/24 07:30 UTC 版)
「クレオン (政治家)」の記事における「生まれと初期の政治活動」の解説
クレオンは裕福な皮鞣業者クレアイネトスなる人物の子である。クレオンをはじめとするデマゴーグは無教養な成り上がり者として描かれることが多いが、彼らは旧来の大土地所有者ではないにせよ、手工業を営む裕福な名望家層であった。トゥキュディデスによれば、クレオンは「他の問題についても市民の中で最も乱暴で、その当時では最も説得力のある人物」であった。 クレオンは紀元前440年頃に名門の家柄のディカイオゲネスの娘と結婚し、政界進出の糸口を掴もうとしたようである。しかし、ペリクレスの存命中に新参者のクレオンに活躍の機会は与えられず、ストラテゴス職はベテラン将軍たちによって独占されていたため、当初のクレオンには軍事的威信もなかった。そこで彼は弁論術に目をつけ、これで政界進出を目論んだ。このクレオンの武器はミュティレネ裁判において存分に発揮された。紀元前428年のミュティレネによるアテナイに対する反乱が翌年に鎮圧されると(ミュティレネの反乱)、彼はミュティレネの男子全員を処刑し、女子供を奴隷にすることを民会で提案した。一日目の裁判では彼の提案が可決され、現地の将軍の許にその命令を伝える快速船が送られた。しかし、人々はこのあまりにも過酷な判決を後悔し、裁判をやり直した。その結果、ディオドトスなる人物の提議で首謀者のみを処罰することが決まり、命令を修正する快速船が送られ、間一髪で間に合った。その後、反乱の首謀者1000人がアテナイに送られると、クレオンの提案で彼らは処刑された。
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