生まれてからケンブリッジ大学まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 16:07 UTC 版)
「ギルバート・ウォーカー」の記事における「生まれてからケンブリッジ大学まで」の解説
ギルバート・ウォーカーはロンドン南部のクロイドンで1868年6月14日に、両親の4人目の子で長男として生まれた。父トーマスは技術者だった。ギルバートは1876年に地元の小学校(Whitgift Grammar School of Croydon)へ入ったが、そこで、数学と力学に興味を示した。13才でケンジントンにあるセント・ポールズ学校(St Paul's School)の奨学金を得て入学すると、教育者として有名な校長フレデリック・ウィリアム・ウォーカーの下で学業生活を送った。ギルバート自身の言によれば、最初は古典を習っていたが大失敗をやらかして数学に送られたとなっている。在学中に力学への興味は増し、1885年には自ら作ったジャイロスコープで賞をもらった。 1885年12月にウォーカーはケンブリッジのトリニティ・カレッジの数学の奨学金を得て、翌年10月に入学した。在学中に大学の賞をいくつか獲得した中に、級友で後に王室天文官(グリニッジ天文台長)になるフランク・ダイソンと共同で授かったSheepshanks Astronomical Exhibition賞もあった。ウォーカーは1889年にトリニティ・カレッジ数学課程卒業試験(Mathematical Tripos)パートIのシニア・ラングラー(数学科首席)に輝いた。ちなみに級友のダイソンは次席だった。1889~90年にウォーカーは応用数学を研究して、数学課程パートIIをやはり首席で卒業した。1891年にダイソンとふたり、トリニティ・カレッジの研究員(Fellows of Trinity)に選ばれた。 しかし、この学業の無理がたたってウォーカーは健康を損ない、療養のためスイスで3年間を過ごすはめとなった。スイスでの療養は貴重な期間となった。この時期は思考に没頭する時間を与えただけでなく、登山やスケートをする機会をも提供した。特にスケートは一生の趣味の1つになった。1895年には健康を回復し、トリニティ・カレッジの講師になると1903年にインドに赴任するまで続けた。
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