生まれてから結婚まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 23:07 UTC 版)
「ヴィットリア・コロンナ」の記事における「生まれてから結婚まで」の解説
ヴィットリアコロンナはローマの近くにあるコロンナ家の領地であるマリーノで、ナポリ王国の保安官であるファブリツィオ・コロンナと、ウルビーノの侯爵の娘であるアニェーゼ・ダ・モンテフェルトロの間に生を受けた。4歳の時、ナポリ王のフェルディナンドの主張により、ペスカーラの侯爵の息子であるフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァロスと婚約し、英才教育を受け、早くから文学に対する愛を示した。彼女はサヴォイやブラガンザの侯爵を含め多くの男たちに求婚されていたが、19歳の時、彼女自身の強い希望で、1509年12月27日に、イスキア島においてダヴァロスと結婚した。そして彼女は夫のおばであるコンスタンツァ・ダバロスの文学サークルの一員となった。 二人は、ダヴァロスがフランスとの戦争に軍人として参加する1511年までイスキア島に住んだ。彼はラヴェンナの戦いの捕虜として捕らえられ、フランスへ送られた。拘留が続き、軍事行動を行う中で、コロンナとダヴァロスは、最も情熱的な言葉を用いて韻文や散文を文通したが、夫に送った詩の手紙は1通しか残存していない。 1516年から1522年までの間にコロンナは3人の家族を失った。弟のフェデリコは1516年に、ファブリツィオは1520年に、アニェーゼは1522年に亡くなった。コロンナとダヴァロスは滅多に会うこともなくなっていた。なぜなら、彼は神聖ローマ皇帝カール5世配下の指揮官のうち、最も行動的で聡明な一人だったからだ。しかし、コロンナの影響力はパヴィアの戦い (1525)の後の、フランスへの反逆の褒美として提案されたナポリ王の地位を捨て、皇帝への反逆を思いとどまらせるのに十分であった。 コロンナは1525年の夏をマリーノにある父の城で過ごした。彼女はここで病に倒れ、この後生涯を通して病気に苦しむことになる。 このころ彼女はバルダッサーレ・カスティリオーネの『宮廷人』の原稿を受け取り、ナポリに広めた。9月21日、カスティリオーネは彼女にまだ発表されていない作品を部分的に転載できるようにしたことを嘆く手紙を送った。そしてこの海賊版によってカスティリオーネは彼の本の出版を急いだ。
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