生まれてから:1856年 – 1874年
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「カラミティ・ジェーン」の記事における「生まれてから:1856年 – 1874年」の解説
1856年、彼女はマーサ・ジェーン・カナリーとしてミズーリ州プリンストンのマーサ・カウンティに生まれた。彼女の両親(ロバート・Wとシャーロット・カナリー)はプリンストンの北西11キロメートル(7マイル)にあるラヴァーナのはずれに住んでいたとアメリカ合衆国国勢調査局の1860年の国勢調査記録で判明している。彼女には2人の弟と3人の妹がおり、彼女は6人姉弟の長女だった。 1866年、彼女が14歳のとき、父ロバートは家族全員を連れて幌馬車でモンタナ州バージニア・シティへ引っ越した。母シャーロットはモンタナ州ブラック・フットで1866年から流行していた重い肺炎にかかり、道中で死亡した。1866年春にバージニア・シティに到着後、ロバートは6人の子供全員をユタ州ソルトレイクシティに連れて行った。1866年夏には現地に到着し、ロバートは約16ヘクタール(40エーカー)の土地に入植し農作を開始したが、1867年、彼女が15歳のときに父ロバートは死去し家族は孤児となった。 彼女は家督を継ぎ、もう一度幌馬車で移動しワイオミング州のブリッガー砦へ入った。1865年5月に現地に到着後、更にそこからユニオン・パシフィック鉄道に乗り換えてピードモントへ旅を続けた。 ピードモントでは、彼女は6人兄妹の長女として家族を養うためにどんな仕事でも引き受けた。皿洗い、コック、ウエイトレス、踊り子、看護婦、牛飼いなどを経て、最終的には1874年にラッセル砦で斥候の仕事を得た。 1896年の彼女の自叙伝で、彼女はこの頃のことを述懐している。 「 1865年から私たちはミズーリ州にあった家から5ヶ月間かけてモンタナ州のバージニア・シティまで移動した。道中では常に私の時間はハンターとして男たちとハンティングすることに費やされた。私は常に男性と共に在り、興奮と冒険があった。バージニア・シティに到着する頃には、私の年齢では良い銃使いであり恐れを知らない乗り手に成長していた。私はミズーリからモンタナまでの道中の出来事を忘れられない。幾度も山を越えたときには、道が非常に悪く凸凹していたので馬の力だけでは乗り越えられず、私たちは何度もロープで馬車を曳き凸凹を越えさせなければならなかった。また、私たちは何度も流砂や沼地で有名な地点の流れの上をどきどきしながら越えた(私たちが慎重さを欠いていたならば、馬車や荷物の全てを失っただろう)。そして、私たちには川が大雨で膨らみ奔流となるときに出会う大きな危険がたくさんあった。通常、その種の危険の際には男たちは最も良い渡河地点を見つけ、そこを横断するだろう。私自身、単に楽しむためだけに何度も馬に乗って川を横断し泳いだ。私と馬の両方は何度も死の淵を見、そこから生還した。しかし、開拓者たちには多くの勇気があったので、私たちは無事にバージニア・シティに到着した。母は1866年にモンタナ州ブラックフットで亡くなった。そこで私たちは母を埋葬し、春にモンタナを出て、夏にユタ州ソルトレイクシティに到着した。 」 この期間中に彼女は「非常に魅力的」であり、「暗い目をした少女」として記述された。ジェーンはほとんど無学であるに等しかったが読み書き出来た。彼女はグレートプレーンズ(大平原地帯)でより荒くアウトドアな人生へ移った。
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