獄中における人物像
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「古谷惣吉連続殺人事件」の記事における「獄中における人物像」の解説
古谷は死刑確定後から死刑執行まで、死刑囚として大阪拘置所に収監されていたが、その人となりについては以下のような証言がある。 夕刊フクニチ新聞社 (1976) は当時、上告中だった古谷の獄中での生活について「『ヨハネの黙示録』や『旧約聖書』を愛読しており、すこぶる健康的なようだ」と述べている。 1977年(昭和52年)1月6日には『毎日新聞』の大阪朝刊(神戸市内版)で、本事件で捜査主任官(捜査一課警部)として古谷を取り調べ、自供を引き出した兵庫県警の元捜査員が、当時上告中だった古谷に対し、毎年正月におせち料理や金を差し入れたり、何度も古谷の下へ面会に訪れたりして、古谷から感謝の手紙を受け取っている旨が報道された。 大阪拘置所での古谷の人物像を知る関係者は、前坂俊之からの取材に対し、「古谷は拘置所内でも手が付けられないほどの暴れん坊で、『あと2、3人殺しても同じだ』などと平気で暴言を吐く性格だが、その原因は幼少期の異様な家庭環境にあるのだろう。その時の大人への不信感・怒りや、母親・大人の愛情の欠落が原因で、大人への憎しみを抱えたまま生育したのだろう。しかし『幼少期に近所の大人から追われていた際に村長の娘に助けられ、村長の家に泊めてもらったことがある。その時の親切を思い出すと嬉しい』と涙を流しながら話したこともあった」「獄舎に来たスズメ・ハトに餌付けしたり、房にクモが出ても恐れないなど動物好きな一面もあるが、殺人に対する罪の意識はなく『自分は幸運な人間だからいつかは助かる』と何度も口にしている。プロ野球の日本シリーズなどを楽しみに観るなど、日常生活を満喫しており、死への恐怖もほとんどないようだ」と証言した。 かつて大阪拘置所で刑務官を務めていた藤田公彦は、自著 (2007) で「古谷は獄中では拘置所職員たちを困らせて恨みを買い、古谷の死刑執行当日には通常は誰もが敬遠する死刑執行官を自ら志願する希望者が殺到し、任命されなかった刑務官が鬱憤晴らしに『みんなであいつ(古谷)の足を引っ張ってやろう』と吐き捨てたほどだった。しかし自分が教育課から手に負えない古谷の心情安定を頼まれ、インコの雛を与えて世話させたところ、古谷はインコを大変可愛がっていた。やがてそのインコは逃げてしまい、そのまま帰ってこなかったが、その際に古谷はそれ以上インコに執着しなかったので、自分は『古谷は自身の“自由に外に出たい”という叶わない願望をインコに託して放鳥したのではないか?』と思った」と述べている。また、藤田は自著 (2008) で「F(古谷)は生前、大阪拘置所の死刑囚たちの中でも難題で、室外での運動中に抜き打ちで居室の検査をされた際、検査を行っていた我々刑務官たちに対し『お前ら、殺したろうか!そしたらまた裁判だ。裁判中は死刑にならない。俺はあと何人殺しても一緒だ!』と怒鳴りつけてきたことがあったが、私が『そう怒るな。これも俺の仕事だ』となだめたら一応怒りの矛を収めた。これはかつて、自分が心情安定のためにFにインコを飼わせた際、いろいろとインコの世話の仕方を教えたことをFが借りとして感じていたからかもしれない」と述べている。 かつて被告人として大阪拘置所に収監されていた藤村昌之 (1997) は、生前の古谷の人となりについて「日ごろは柔和な好々爺だったが『自分は実は(起訴された8人より)もっと大勢殺している。警察の捜査技術が未発達だったから(被害者の)死因がわからなかった』と自慢していた」と述べている。 古谷の弁護人を務めていた橘一三は、獄中における古谷について「仏のように落ち着いた日と、荒れ狂う日の間を揺れ動いている」と証言した。
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