熊楠の保護運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:45 UTC 版)
「神島 (和歌山県)」の記事における「熊楠の保護運動」の解説
1902年には南方熊楠が初めてこの島に渡り、2年後には田辺に居を定め、神島を含む周辺の生物研究にいそしんだ。神島の粘菌については「植物学雑誌」に報文を出している。 ところが1907年頃から始まった神社合祀運動の中で、神島神社も新庄村の大潟神社との合祀が決まり、神体のなくなった島は伐採してよい、ということで伐採が始まり、その代金で新庄小学校の校舎改築の代金にする事になった。熊楠は神社合祀に反対運動を行っていたが、特に神島は学術上の重要性があるとして大いに反対した。彼は神島の森の伐採が漁業に大きな悪影響があること、ハカマカズラの重要性やその保護の意義などを説いて新庄村長を説得したところ、村長も納得し、村議会で伐採の中止を決議、代金の払い戻しを行った。ただし、この時点で「こやま」の伐採はすでに行われている。 熊楠はこれに飽き足らず、神島については法律的な保護が必要と考え、東京大学教授の松村任三と貴族院書記長官の柳田國男に長文を送って保護を訴えた(南方二書といわれる)。これを受けて和歌山県は1912年に神島を魚付き保安林に指定した。熊楠はこれだけでは不足と考え、さらに田辺高等女学校の宇井縫蔵と共に「ハカマカズラの北限自生地」として和歌山県の天然記念物に指定するよう申請を行い、1930年には県の天然記念物に指定された。 1929年に昭和天皇が田辺湾に軍艦で来訪、神島に上陸して生物調査を行い、その際に熊楠は軍艦の上で進講した。それを機に熊楠は大阪毎日新聞に「紀州田辺湾の生物」を連載、そこで神島の生物や貴重性についても詳しく書き、またすでに一部が伐採されたことにも触れた。また翌年には天皇行幸を記念して熊楠の自詠自筆による歌碑が建てられ、それを機会に彼は神島を国の天然記念物にすることを提唱した。彼はその資料を作るために1934年に田辺営林署に依頼して島の詳しい地形図を作成させ、営林署員や地元の学校教員などの協力を得てこれにすべての樹木の位置と種名を書いた「田辺湾神島顕著樹木所在図」を作成、それに調査報告書を添えて文部省に提出、国の天然記念物の指定を申請した。それに対してその翌年、植物学の三好学、地質学の脇水鉄五郎が調査のために来島、それらを受けて1935年12月24日、国の天然記念物に指定された。 なお、熊楠の死後、1962年に昭和天皇が行幸の際に熊楠を偲んで詠んだものによる歌碑は、白浜番所山の、ちょうど神島を見通せる尾根に建てられている。
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