熊楠以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:45 UTC 版)
それ以降もこの島での学術調査は数多い。特に陸産貝では畔田徳米や波部忠重もこの島で調査を行い、1949年に日本貝類学会が白浜京都大学臨海実験所で行われた際にはエクスカーションがこの島で行われた。 その後、新庄村が田辺市と合併し、島の管理が田辺市に移った。1955年、田辺市教育委員会に文化財調査会が設置され、その最初の事業として神島の調査が行われた。これは戦後の混乱期に神島で盗伐が行なわれたことや、熊楠の調査から20年も経過していることなどによる。この調査では土壌動物の調査を愛媛大学の森川圀康に依頼した。 まとまった調査としては、第三回のものが1983年から田辺市教育委員会によって行われた。これは熊楠の調査からほぼ半世紀を経ていたこと、その間に様々な変化があったらしいことがわかってきたためである。調査は3年にわたって行われ、その報告書は1988年に出された。以下の生物相などの記述は主としてこれによっている。 その後も個別の研究者がこの島を訪れることはあり、それぞれに成果が上がっている。 2015年9月24日、吉野熊野国立公園が拡張され、神島も国立公園に含まれることとなった。同10月7日、神島を含む熊楠ゆかりの地13ヵ所が「南方曼陀羅の風景地」として国の名勝に指定された。
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