無文銀銭は貨幣か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 08:22 UTC 版)
戦前は「わが国で最初に造られた貨幣」と言われていたが、昭和47年(1972年)の文献は「これを貨幣として認めるには無理」としている。現在では、一応通貨としての価値を認められていたと推定されている。 内田銀蔵(1921)は、天武紀の銀銭の候補に掲げ、政府の公鋳品でなく、朝鮮産の銀を材料として我国にて私人が適宜製作し行用した可能性があり、和銅以前に自然に行用していた原始的の銀銭であろうとしている。また無文銀銭が銀一両(24銖)の1/4に充たる一分銀(6銖)であるとした。 西村眞次(1933)は、白鳳12年(天武天皇12年)の条や同3年の対馬の銀産出記事に触れ、装身具の一種と考えられないことも無いが、天王寺村から100個も一時に出土したことから装身具では合点がいかない。一種の通貨として考えた方が良いとした。 黒田幹一(1942)は、円形小孔の「銭形品」であり、国家が初めて鋳銭を行うに際してこのような粗雑なるものを鋳造する理由がないとした。 青山礼志(1982)は、量目のバラつきが少なく、眞寳院の出土100枚前後が副葬品として埋められたにしては多過ぎることから、通貨ではなかったにせよ、自然貨幣から正規の発行貨幣に移る過渡的な流通財と認めざるを得ないとしている。 滝沢武雄(1996)は、崇福寺趾から発掘された銀銭11枚の質量が 6.7 グラムから最大 35.7 グラムまであって一定しておらずこの銀銭は秤量貨幣であったことを示し、和同開珎とは性格が異なる貨幣としている。 今村啓爾(2001)は、遺跡に残るものは、凡そそれが捨てられたか、故意に埋められたかであり、銀のような貴重なものが捨てられることは考えにくいから、無文銀銭が鎮壇具としての使用状況の出土に偏るのであり、それが厭勝銭を意味するものではないと指摘している。丁銀(秤量貨幣)や近代までの世界の金銀貨(本位貨幣)を挙げるまでもなく、貨幣を名目貨幣だけに狭く限定するのは不適切であるとする。 無文銀銭の量目は、特大の1枚と、銀片の剥離跡が見られる1枚や切断片を除くと 8.2 グラムから 11.2 グラムの範囲にある。平均すると 10 グラム程度であり、1両(24銖, 約41.5 グラム)の1/4程度である。江戸時代の古銭書には「二匁八分」( 10.4 グラム)と記したものが多い。これはまさに 1分(6銖)を意識した貨幣(一分銀)であるとされる。今村(2001)は、量目がほぼ揃い計数貨幣的であり、丁銀以上に貨幣的であるとする。 新羅の文武王12年(672年)の記事に、唐皇帝に「銀三万三千五百分」を進貢したとあり、単位が「分」である。
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