火災・出店規制・戦争などによる営業の蹉跌
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「白木屋 (デパート)」の記事における「火災・出店規制・戦争などによる営業の蹉跌」の解説
1931年(昭和6年)に日本橋本店の再建工事第2期が完成して全面的に復興することになったが、1932年(昭和7年)7月には大阪支店が閉店した。同年12月16日、日本橋本店4階から出火し、死者14人、負傷者67人を出す惨事となった。この「白木屋火災」は、日本初の高層建築における火災事例であった。これらの災難が重なり、困難な経営状況が続くことになった。 また、分店開設の一環として、京浜電気鉄道(現在の京急線)の品川駅乗り入れに伴ってできる高架下に、品川分店を開設する計画を立てたが、日本百貨店協会が支店などの開設を自粛する自制協定を発表したことに伴い、それに抵触するとしてこの構想は実現できなくなるなど、出店戦略も行き詰まることになった。この京浜電気鉄道品川駅などへの出店計画自体は、当社の取引先の問屋と京浜電気鉄道が出資して設立した株式会社京浜デパートが継承して実現したものの、当社は出資できなかったため、その利益を享受することはかなわなかった。 また、戦時体制へと進む中で、資材調達にも抑制がかかり、1938年(昭和13年)7月に大森分店隣接地に開設した大森映画劇場は、鉄骨使用が禁じられて木造建築となるなど統制による営業への影響が徐々に表れ始めた。 一方では1937年(昭和12年)に五反田分店と錦糸堀分店、大森分店の増改築が行われて増床が実現しており、当店の分店の営業面積は大幅に拡大することになった。大森分店は、地元鶴屋に資本金100万円を出資して鶴屋株式会社とし増改築を行い、白木屋が改めて賃借契約を結び鶴屋から貸室する形で新装開店した。 また、関連会社として白木貿易を設立して戸越や西荻窪、立川市、平塚市、水戸市、前橋市、太田市など関東各地に分店を置いて日用雑貨の販売を行う営業戦略も展開している。 その後も政府による統制強化が続き、輸入の制限・公定価格制導入による価格統制などが相次いで施行されて自由な営業が難しくなり、店舗などの建物の供出命令なども受けたため、事実上開店休業状態に陥ることになった。 そのため、配給所の運営などで辛うじて存続を図ることになったが、東京大空襲で日本橋本店の5・6階および8階の一部や、大塚分店、隣接地に移転後の大森分店(日本光学への全館貸室により1943年(昭和18年)10月に移転したあとの建物。鶴屋所有の元大森分店建物は焼け残った)、錦糸堀分店などの主要店舗が焼失するとともに、その際に従業員も死亡するなど大きな被害を受けることになった。
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