火器と横隊戦術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 07:56 UTC 版)
スウェーデン軍の旅団は6つの縦隊が配属され、縦深は1個中隊分(各旗が中隊を表す) ブライテンフェルト。上側のカトリック軍の縦深は2個中隊(旗が2列ある)。下側のスウェーデン軍の縦深は1個中隊(旗が1列しかない) アルテ・ヴェステの戦い。スウェーデンの攻撃隊列は2個中隊の縦深で展開した 火器の導入によって、復活した古代のパイク兵の方陣にマスケット銃兵を組み合わせることになった。 野戦の様相は銃の普及によって革命的に変化した。個人の武勇は銃の威力で上書きされた。15世紀と16世紀、パイク兵の方陣が戦場の騎兵の価値を大幅に引き下げた。しかし、1512年のラヴェンナの戦いで示されたように、方陣は野砲の砲撃や小銃の射撃に対しては脆弱だった。そこで、銃兵がパイク兵の方陣に導入されたが、当初その割合は1:3だった。その後、銃兵の割合は大いに増え続けて、1650年頃には4:1にまで達していた。 当時の銃の発射速度は非常に遅く、よく訓練された銃兵でも2分に1回の発砲が限度だった。これでは、騎兵の突撃を受けた場合、有効な一斉射撃は1回しか行えなかった。このため、パイク兵が銃兵を守る必要があった。1590年から1600年の間に、ネーデルラント連邦共和国の軍隊は、古代ローマの歩兵戦術(英語版)の研究にヒントを得て、敵を食い止めるための連続的な火力発揮を可能にする戦術改革を行った。銃兵を薄い横隊に配置し、最初の横隊が発砲すると、次は2番目の横隊が発砲し、と、これを繰り返して、10番目の横隊が発砲すると、最初の横隊は再装填を終えて発砲準備ができていた。 こうして生み出された薄く広い歩兵隊列は、防御的な配置には理想的だが、攻撃的な機動には不向きだった。間口が広くなるほど、秩序と統制を維持したり、戦術機動、特に旋回を行うことが難しくなる。ティリーによって使用されたような突撃隊列が、実際には素早く柔軟なことをグスタフ・アドルフは熟知していた。このスウェーデン王は必要に応じて、アルテ・ヴェステの戦い(Battle of the Alte Veste)のようにそれを利用した(図3を参照)。 確かに軍隊はより薄い隊列を使い始めたが、それはゆっくりとした進化だったし、戦術的な必要性が優先された 。火器は未だ軍隊の隊列のすべてを決定するほど強力ではなかった 。他の要素、例えば部隊の経験 であるとか、任務とか地形とか「戦力不足の部隊で必要な長さの戦線を埋めないといけない」なども重要だった。横隊か縦隊かの論争は、18世紀のナポレオン時代まで行われ、ナポレオン戦争後期の戦役では、縦列への一時的な逆転現象も起きた。 皮肉なことに、騎兵の縦深の削減は、グスタフ・アドルフによって導入されたより永続的な変化だった。ピストル射撃への依存度が低いことと関連して、ロバーツの主張する傾向とは逆に、火力よりも衝撃力(突撃)を優先するためのものだった。
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