済の爵号についてとは? わかりやすく解説

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済の爵号について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 14:45 UTC 版)

「済」の記事における「済の爵号について」の解説

『宋書』には、済の爵号が「安東将軍」とする記録と「安東大将軍」とする異な記録があり、議論がある。『宋書』夷蛮伝・倭国条は、済は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に封じられ元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が加号されたが、「安東将軍」は元のままとされた。一方『宋書』本紀は、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している。また、冊府元亀』巻九六三・外臣部・封冊一も「(宋・文元嘉二十八年七月安東将軍倭王済,進号安東大将軍」と記述しており、元嘉28年に「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたと記している。 済の爵号が「安東将軍」、もしくは安東大将軍」について、3つの解釈大別される夷蛮伝・倭国条が正しく本紀誤りであり、爵号は「安東将軍」の元のままであるとする説(支持者池内宏宮崎市定西嶋定生本紀正しく夷蛮伝・倭国条が誤りであり、爵号は「安東将軍」から「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者:高寛敏、田中俊明夷蛮伝・倭国条と本紀両方とも正しく時間差考慮して、まず「安東将軍」が授与され、まもなく「安東大将軍」に進号されたとする説(支持者坂元義種吉村武彦荊木美行現在の日本では、2.もしくは3.が通説である。一方韓国では、高句麗王が「征東大将軍」、百済王が「鎮東大将軍」を得たのに対し倭王が「安東将軍止まりであるならば、国際的地位大きな見解の差が生じ高句麗王百済王上位倭王下位という優劣序列とも解釈できるため、1.主張みられる鍾大は、以下のように主張している。 済は宋朝から安東将軍倭国王として冊封受けた後、元嘉28年には「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王」として冊封された。同書『宋書』本紀には安東大将軍として追封されたことを記録しているが、錯誤だというのが通説である。…中国南朝高句麗百済・倭に冊封した爵号序列面においても劉宋朝の場合は、高句麗最初から征東将軍として冊封され、征東大将軍車騎大将軍・驃驤大将軍順序で進封されており、百済最初鎮東将軍冊封されたが、鎮東大将軍に進封された。倭は最初からずっと低い序列安東将軍として冊封されただけである。同じ時期冊封百済は鎮東大将軍であり、倭は序列が低い安東将軍に過ぎないにも拘わらず百済包含する韓半島南部軍事的に支配したというのは論理的に成立しえない主張である。 — 鍾大、倭の五王の上表文韓日古代史問題点 延敏洙は、以下のように主張している ところで、済に除授された爵号安東大将軍なのであれば、済の死後王位継いだ興が大明6年に除授された爵号安東将軍であるため、前任の王よりも下位爵号を除授されたことになる。これは中国の王朝授爵慣例から見て考えにくいことである。後任の王に特別な欠格事由がない限り前任の王の爵号同等ないしは上位爵号を除授するのが常例であるためである。列伝記録されている世祖孝文帝の条によると、「倭王後嗣である興は、累代倭王忠誠受け継ぎ外海に宋室の屏をなし、天子徳化受けて境域平安にし、このように丁重に朝貢してきた。今、新たに辺土守護しているため、爵号を除授し、安東将軍倭国王とせよ」と称頌の表現駆使しているように、前任の王よりも下位爵号下される事由は見いだせない。この記事否定しない限り元嘉28年倭国王済の安東大将軍説は採りにくい。…このように見ると、倭の五王時代倭王たちが、宋朝から除授された将軍号安東将軍が最高の官品だったといってもよいだろう倭国王国際的な地位が、始終高句麗百済王よりも下位置かれていたことは、宋朝側の国際認識であり、現実的な外交路線反映しているものと考えられる。 — 延敏洙、倭の五王時代対外関係 石井正敏は、夷蛮伝・倭国条は、元嘉20年に「安東将軍 倭国王」に冊封された済が、元嘉28年に「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号されたことを、「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍如故。」と記しているが、その記事に済が元嘉20年得た爵号倭国王」が記されていないことを指摘しており、夷蛮伝・倭国条の済の任官記事安東将軍故ノ如シ」に着目している。すなわち、「(官爵号)如故(もとノごとシ)」という表現は、同じ夷蛮伝の中における高句麗王および百済王が進号・加号された場合以前得た爵号継承する場合「王」号も必ず「如故」と記している。一方、済の場合、「安東将軍」のみが「如故」とされ、「倭国王」は欠落しており、本来は「如故」称号に「(倭国)王」が含まれていなければならないが、同じ夷蛮伝の中における高句麗王百済王比べて表現方法不可解な相違がある。もう一つ夷蛮伝・倭国条の元嘉28年条の記事注目されるのは、ほかならぬ安東将軍如故」とあることである。『宋書』夷蛮伝や氐胡伝をみると、「如故」とする場合は、爵号フルネームを記さず、略称を用いるのが一般的であり、高句麗王場合、「使持節持節」「散騎常侍→常侍」「都督営州諸軍事→都督」「高句麗王→王」「楽浪公→公」と略称が用いられている。氐胡伝における楊文度場合元徽4年)、 (前官) 寧朔将軍略陽太守武都王 (新除) 加督北秦州諸軍事・平羌校尉北秦州刺史将軍如故。 この「将軍如故」の将軍は「寧朔将軍」を指しており、やはり「如故」とする場合は、爵号フルネームを記さず、略称が用いられている。また済が元嘉28年に除正を求めた記事には、「并除所上二十三人軍,郡。」と記すが、この記事の「除…軍,郡」は将軍号・郡太守号の略称である。これらの例から、「○○将軍」号が「如故」とされる場合は、「○○将軍如故」ではなく、「将軍如故」もしくは「軍如故」と具体名は省略されるのが一般的であるとみなされる。すなわち、問題とする済の場合元来略称が用いられるべきところに、わざわざ「安東将軍如故」とフルネーム使われていることに、却って問題感じるのであり、少なくとも夷蛮伝において異例表現であることは明らかである。 石井正敏は、本紀は、安東大将軍に進号した月日や「安東将軍」から「安東大将軍」に進号する、とまで具体的に記しているため、済の爵号が「安東大将軍」とする本紀記録信頼性があるという常識的理解のうえで、夷蛮伝・倭国条の表記異例に注目すると、倭国元嘉28年条の原文における誤脱指摘しており、元来二十八年,加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,進号安東大將軍王如故。」と記すべきものが、誤脱生じた結果二十八年,加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故。」と伝わった可能性指摘している。石井正敏は、「もちろん史料原文誤脱安易に主張することは厳にまなけれならないことを十分に認識している。しかしそれでもなお、この部分については誤脱想定する十分な理由あるよう思われる」として、夷蛮伝は早く散逸し遠く10世紀趙匡胤宋代補われ可能性指摘しており、元嘉28年に済が得た爵号本紀通り安東大将軍」であり、高句麗王(「征東大将軍」)および百済王(「鎮東大将軍」)と倭王上下優劣序列があるという主張には従えない批判している。

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