死体写真家へとは? わかりやすく解説

死体写真家へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 07:41 UTC 版)

釣崎清隆」の記事における「死体写真家へ」の解説

シネマジックには2年勤めたものの、27歳になりAV業界での活動限界感じ始めていた。その時悪趣味売りにする鬼畜系雑誌TOO NEGATIVE』の編集者小林小太郎タイ死体写真の撮影勧められそれまで写真映像より劣る物と考えていたものの、ロサンゼルス行き考えていたこともあって承諾1994年タイでの撮影後ロサンゼルスへ行き、さらにそこから近いということ1995年1月コロンビアへ行くことになった。 後に、釣崎は「自分たちは純粋培養どうしようもなく甘い世代だから、ただ絶望して潰れてしまうより自発的に突破口切り開いていかないと何も変わらないという思いがあった。例えば、実際死に触れないホラー映画監督になるほど、僕は恥知らずじゃない」と語っているが、このコロンビアでの体験衝撃的なものとなった当時コロンビア政府メデジン・カルテルという巨大犯罪組織との間に繰り広げられ麻薬戦争終わって間もなく、その残党跡を取ったカリ・カルテル跳梁元より左翼ゲリラFARC国土三分の一支配し極右民兵組織なども入り乱れる内乱状態にあり、麻薬誘拐暗殺といった犯罪日常化した世界だった。首都ボゴタ死体撮影求めてマフィアとの接触図っていた釣崎は、エンバーミング専門とするオロスコ出会い、その生き様惹かれ長期撮影に入る事になる。 製作三年わたったオロスコ公開後2001年アメリカ同時多発テロ影響を受け、事件2ヶ月後慢性的紛争下のパレスチナ活動PLO幹部へのインタビューなどルポルタージュ活動挑みつづいて2002年5月 コロンビア エルカルトゥーチョ、カリ2004年6月 パレスチナ自治区 ジェニン2004年10月タイ2006年インド バラナシ2006年10月フランス カタコンブ2007年メキシコゼロ年代通じて世界駆け巡ることになる。 国内では、2007年死体写真家になって13年目で初め樹海での撮影敢行同年映像作品JUNK FILM』を発表した

※この「死体写真家へ」の解説は、「釣崎清隆」の解説の一部です。
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