森家に仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 07:18 UTC 版)
元亀元年(1570年)に浅井長政・朝倉義景の連合軍3万が摂津国で三好三人衆と交戦中の信長の背後を突くべく出陣。浅井・朝倉連合軍は一向一揆も加わり、その軍勢は2万8,000とも3万とも伝わる。浅井・朝倉連合軍の南進を阻止するため、森可成は加勢に来ていた織田信治、青地茂綱と共に坂本へと出撃したが、その際各務元正は宇佐山城の守備に残された。可成らは浅井・朝倉連合軍を相手に何度か押し返したものの結局は衆寡敵せず、最後は信治、青地と共に討ち死にしてしまう。可成戦死後に連合軍が宇佐山城に殺到した際には、城兵を鼓舞し奮戦。宇佐山城の兵は1,000人余りであったがよく防戦し、連合軍は結局、宇佐山城を陥すことが出来なかった。浅井・朝倉連合軍は宇佐山城攻略を諦めて京都方面へと進軍を開始したが、坂本の突破と宇佐山城攻めに無駄な時間を費やしている間に信長も摂津から兵を返して来ており、連合軍の目論みは失敗に終わった。戦後、宇佐山城防衛で功を成した武藤兼友、肥田直勝、林通安らと共に信長より直に賞賛を賜った。この後、浅井・朝倉連合軍が比叡山に立て篭もり、信長が宇佐山城に陣を敷いてそれと対峙する志賀の陣へと繋がることとなった。 森家の家督を可成の次男長可が継いだ後も、越前一向一揆討伐、長島一向一揆討伐、長篠の戦い、三木合戦など数々の戦いで高名する。特に名を上げたのは天正10年(1582年)の甲州征伐における高遠城攻略の時で、矢狭間から真っ先に城内へと討ち入り群がる城兵を1人で薙ぎ倒したという。戦後に捕虜となっていた同族の武田信廉を長可の命で処刑している。甲州征伐の論功で長可が信濃へ加増転封となり、長可の弟森成利(蘭丸)がそれまで兄長可の居城であった金山城5万石の領主となると、自前の家臣を持たない成利のために家老として付けられる。しかし成利は京都での政務のため領国へ赴くこともないまま本能寺の変で死去し、不在の間は金山城代として実質的に領国の政務を執った。 本能寺の変後、長可が信濃川中島四郡の所領を捨てて旧領である金山に帰還して以後は、長可に再び従い東美濃の制圧戦で主力部隊として働き森家の東美濃統一に貢献した。また、長可が岩村城を接収した際には岩村城代に任ぜられた。しかし天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで長可はこれまで功のあった家臣を殆ど美濃に残して出撃し、元正も岩村城守備の命を受けた事から参陣はしなかった。合戦期間中に長可の東美濃侵攻軍に破れ、勢力を失っていた遠山友政、遠山利景らが徳川家康の助力を得て岩村城に攻撃を仕掛けてきたが、元正はこれを撃退し、逆に遠山半左衛門などを討ち取っている。
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