森家出奔後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 05:05 UTC 版)
森氏を出奔した為忠ら林一門は安芸国広島藩主福島正則の招きで為忠2500石、長男の直親が1074石で召抱えられた。為忠の自伝的色合いの強い『林家覚書』は福島家臣時代に書かれたものともいわれる。 元和5年(1619年)に福島氏が改易されると摂津国で隠棲していたが、元和7年(1621年)播磨国姫路藩主本多忠政に客分として迎えられた。改易の福島氏から広島の城地を受け取る任務を負ったのが本多忠政といわれており、その縁による召抱えとも考えられている。為忠へは5000石、直親に1000石、更に一門の林直道にも1000石という、破格の待遇で召抱えられた。 晩年は出家して「道休」を号した。またこの頃、旧主の森忠政と和解し文通の手紙が何通か現存している。寛永8年(1631年)に本多忠政が死去後は本多忠義の庇護下に入った。没年は不明。5000石は林家のものではなく、あくまで為忠個人の隠居領であったようで死後、本多家に返還されている。
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