松竹映画への移籍
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1943年(昭和18年)3月3日、東宝を依願退職。造形美術係主任だった奥野文四郎らとともに松竹蒲田撮影所に移籍する。4月、『敵機空襲』(渋谷実、野村浩将、吉村公三郎共同監督)で特殊撮影を担当。 松竹は6月には大船撮影所に川上らを擁する特殊撮影課を新設。この体制で『愛機南へ飛ぶ』(佐々木康監督)を撮影。 1944年(昭和19年)、『三太郎頑張る』(野村浩将監督)を担当した後、海軍に応召入営。 1945年(昭和20年)、日本敗戦により松竹大船撮影所特撮課主任に復帰。 1949年(昭和24年)、特撮課に矢島信男が入社。川上の門下生となる。松竹は他社に先駆け『カルメン故郷に帰る』(木下惠介監督)で日本初の総天然色映画を実現。 この時期、公職追放によってフリーとなっていた円谷英二が自宅に「円谷特技研究所」を開設、松竹から特殊撮影を請け負う。 1953年(昭和28年)、『沖縄健児隊』(岩間鶴夫監督)で戦争シーンの特撮を担当。久しぶりに本格的な特撮が使われた。 1954年(昭和29年)、『沖縄健児隊』での成果を見た松竹は、『君の名は』(大庭秀雄 監督)の全三部作制作にあたって、第一部の東京大空襲シーンの特撮部分強化を目論み、東宝の特技課に応援を要請。すでに「円谷特技研究所」名義で松竹と関係があったうえ、川上が東宝時代の門下生だったこともあり、円谷はこれを快諾、向山宏らとともに特撮に参加。 1956年(昭和31年)、日仏合作の大作映画である『忘れえぬ慕情』(イヴ・シャンピ監督)で、台風襲撃の特撮シーンを担当、大評判となった。川上はこの作品で「日本映画技術賞」の「特殊技術賞」を受賞。 この「特殊技術賞」は、円谷英二も特撮映画『空の大怪獣ラドン』(本多猪四郎監督)で受賞しており、東宝・松竹両者初の総天然色特撮映画が特撮シーンで同時受賞するという快挙となっている。 この時期、木下惠介監督は自作品に特撮を積極的に採り入れ、川上はこれに応えて『野菊の如き君なりき』(1955年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)などの作品にミニチュア撮影やスクリーン・プロセスの技術を投入している。
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