松竹映画への移籍とは? わかりやすく解説

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松竹映画への移籍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/08 08:56 UTC 版)

川上景司」の記事における「松竹映画への移籍」の解説

1943年昭和18年3月3日東宝依願退職造形美術主任だった奥野文四郎とともに松竹蒲田撮影所移籍する4月、『敵機空襲』(渋谷実野村浩将吉村公三郎共同監督)で特殊撮影担当松竹6月には大船撮影所川上らを擁する特殊撮影課を新設。この体制『愛機南へ飛ぶ』佐々木康監督)を撮影1944年昭和19年)、『三太郎頑張る』(野村浩将監督)を担当した後、海軍応召入営1945年昭和20年)、日本敗戦により松竹大船撮影所特撮主任復帰1949年昭和24年)、特撮課に矢島信男入社川上門下生となる。松竹他社先駆けカルメン故郷に帰る』(木下惠介監督)で日本初の総天然色映画実現。 この時期公職追放によってフリーとなっていた円谷英二自宅に「円谷特技研究所」を開設松竹から特殊撮影請け負う1953年昭和28年)、『沖縄健児隊』(岩間鶴夫監督)で戦争シーン特撮担当久しぶり本格的な特撮使われた。 1954年昭和29年)、『沖縄健児隊』での成果見た松竹は、『君の名は』(大庭秀雄 監督)の全三部作制作にあたって第一部東京大空襲シーン特撮部分強化目論み、東宝特技課に応援要請。すでに「円谷特技研究所名義松竹と関係があったうえ、川上東宝時代門下生だったこともあり、円谷はこれを快諾向山宏とともに特撮参加1956年昭和31年)、日仏合作大作映画である『忘れえぬ慕情』(イヴ・シャンピ監督)で、台風襲撃特撮シーン担当、大評判となった川上はこの作品で「日本映画技術賞」の「特殊技術賞」を受賞。 この「特殊技術賞」は、円谷英二特撮映画『空の大怪獣ラドン』本多猪四郎監督)で受賞しており、東宝松竹両者初の総天然色特撮映画特撮シーン同時受賞するという快挙となっている。 この時期木下惠介監督自作品に特撮積極的に採り入れ川上はこれに応えて野菊の如き君なりき』(1955年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)などの作品ミニチュア撮影スクリーン・プロセス技術投入している。

※この「松竹映画への移籍」の解説は、「川上景司」の解説の一部です。
「松竹映画への移籍」を含む「川上景司」の記事については、「川上景司」の概要を参照ください。

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