松浦武四郎の記録
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松浦武四郎は、1849年北海道からの帰りに十和田湖を訪れ、十和田湖から発荷峠を越えて、鹿角に達している。その時、詳細に記録を残している。 湖畔に沿って西に行くと小さな平原に出た。ここは、クマザサや樹木が多い。ここから250m程進むと水辺に華表が1基ある。左右に道が分かれていて、右は銀鉱山へ向かうあるかないかの道である。左の道を選び細い谷川に沿って谷間を500mから600mほど行く。つづら折りの道を17から18曲がりほど草の根を足がかりとして進むと、辛うじて草原の土地に到着する。ここを「ハッカノ坂」と言う。また、ここは駒留とも言い、鹿角から参詣に来た者はここで馬から降りて、馬を戻した場所であるからそういう名がついている。ここから十和田湖を見ると、湾がおよそ十ほど見える。これから十和田湖が十湾とも言われていることが分かる。
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松浦武四郎の記録
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松浦武四郎は1850年(嘉永3年)に大間越関所を通り、その時のエピソードを『東奥沿海日誌』に記録している。 関所の門に逆茂木をゆわいて防備を厳重にして、峠の上に番所を構えている。ここには、弘前から物頭格の侍が1人と下役の者が7,8人も来ていて、往来する旅人から銭をむさぼり取っているのである。その取り方は、他の国にはめったにないようなやり方である。まず旅人が行くのを待っていて、国や居所を聞き、いろいろとむずかしいことを言って、銭を出さなければここから追い返すぞと言わんばかりの様子で「ここの問屋を通して願い出よ」と言って町に返してやり、さて問屋に行けば60文の判銭と32文の袴代を取って切手(手形、切符)を出すのである。もしもわずかな問題などがあれば、1貫文も袖の下として取られてしまう。私が初めてこの領内に入る時は、碇ヶ関から入ったが、商売人ではない者は入国を禁ずると申されたので、その夜は村に泊まり、宿の亭主に酒などをのませて、その口ききで通してもらったが、何かに経費がかかって2貫文ばかりつかってしまった。それ故、この国と隣り合わせの、秋田や南部の者は皆「間道」を通るということである。そのために、間道の方が至って道路も良く往来しやすいそうである。思うにこのような状態では、番所詰めに必要な経費としての上げ銭もとれないからかえって領主に損になっているのではないか。もし、国のために必要で置いてある番所ならば、銭をむさぼり取らないようにして、往来の諸人がみな本道を通るようにしたいものである。さて、弘化2年の秋に秋田の岩館番所を通った時には、65文とられたが、3年後の弘化4年の6月に通った際には、20文の袴代をとって切手を出してくれたので、そのわけを村人に聞いたら「1人から65文ずつ取った時には、旅人がみな間道を通ったが、最近、久保田から役人衆が来て、それでは旅人が難儀するといって、1人20文に値下げることになった。そうしたら上げ銭もかえって多くなった」ということである。これはやはり旅人が安い値段で本道を通れるようになったからである。津軽の方も、そのようにすればかえって領内の用心になり収益も多くなるのではないだろうか。関所を通ると町があって、裏は谷川になっている。流れは岩角に当たって、勢いすさまじく市場のある町を1丁ばかり下ると、川には板橋がかかっている。人家は60軒ばかりで漁師と農民が入り交じっている。また問屋が3軒あり、いずれも旅籠屋をやっている。私もそこに泊まった。岩館番所よりは4里半、観音庵がある。さて、間道を通るにはこの橋の下よりいほりの下を通って、この山の下をまわって行くのである。岩の上を飛び越えはなはだ難所である。また、屏風のような岩盤の上を通るところもある。しかし、往来の旅人は65文と相談の上のことなので、みなここを通っている。私も一度ここを通った。しかし、大間越の関所から秋田に出る時は65文をとるだけで、あとからはとらないそうである。
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