松岡功
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まつおか いさお
松岡 功
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生誕 | 1934年12月18日(90歳)![]() |
出身校 | 甲南大学経済学部 |
職業 | 実業家 |
配偶者 | 千波静 |
子供 | 松岡宏泰(長男)、松岡修造(次男) |
親 | 松岡辰郎 |
栄誉 | 全国興行生活衛生同業組合連合会 特別功労大章(2015年)[1] |
松岡 功(まつおか いさお、1934年(昭和9年)12月18日[2] - )は、日本の実業家・テニスプレーヤー。東宝名誉会長(元代表取締役会長)、日本アカデミー賞協会名誉会長[3]。兵庫県芦屋市出身[4]。
経歴
小林一三の次男・松岡辰郎の次男として生まれた[5]。甲南幼稚園[6]から甲南小学校へ進学。小学校時代の同級生には野村文英がいたという。1945年には丹波市の慧日寺へ集団疎開した[7]。甲南中学校・高等学校[8]在学中は硬式テニス部に所属し、全日本ジュニア選手権ダブルスで優勝、高校総体では準優勝に輝いた[9]。甲南高校の2学年下には石黒修がいた[10]。
1953年、設立3年目の甲南大学へスポーツ推薦で入学した。松岡はこの当時「高校テニス三羽烏」の1人に数えられており[注釈 1]新設大学における広告塔として期待されていたという[11]。進学後はその期待に沿うべくテニスに打ち込み、全日本学生選手権でシングルス・ダブルスで合計3回の優勝を記録した[2][12]。大学4年次の1956年、デビスカップ日本代表となった[2]が、東宝のためにテニスを断ち切った[10]。次男の修造は、父がテニス選手だったことを長い間知らなかった[13]。
1957年に甲南大学経済学部を卒業[2]し、すぐに東宝に入社した[14]。1960年には、東宝の外国部アメリカ課、1965年には同ローマ課を歴任した[15]。1968年には東宝東和に出向し、1969年に取締役に就任した[16]。
1970年、東宝の取締役に就任し[17]、1973年には常務取締役[2]となり営業本部長の重責を担った[14]。1974年、父・辰郎の死去に伴い清水雅がピンチヒッターとして社長に復帰することになり、8月22日には将来の社長就任を見据えて副社長に就任した[2]。1976年5月25日には、代表権を持つ副社長となった。
1977年5月25日、東宝の代表取締役社長に就任[2][18]。創業者・小林一三の血筋への社長継承であったことから、大政奉還という表現が用いられた。当時松岡は42歳であり、40代での社長就任は日本映画界初であった[19]。かつての東宝の人気映画シリーズになぞらえて、若大将というニックネームも用いられた[20][21]。就任当時は映画産業の斜陽化が叫ばれていたが、テレビ世代の審美眼に応えられる映像を作ることを目標とした[22]。また日活が成人映画へと路線を変更したのに対し、松岡は「ポルノはやらない」と決め一般向け路線を堅持した[23]。
1995年には石田敏彦に社長の席を譲り、代表取締役会長となった[24]。2009年には名誉会長となった[25]。
グループ企業においては、1985年に阪急電鉄の取締役に就任した[26]。2005年には持株会社化した阪急ホールディングス取締役、さらに阪神電鉄を合併した2006年には阪急阪神ホールディングス取締役に就任した。2015年に退任した[27]。
また、東宝はフジテレビ制作の『子猫物語』『南極物語』などを配給し収益を上げていたことから、フジ・メディア・ホールディングスの取締役を2017年まで務めた[28]。
家族・親族
- 小林一三(父方祖父[2])- 阪急東宝グループ創業者
- 松岡潤吉(母方祖父)- 松岡汽船創業者
- 小林米三(叔父)- 京阪神急行電鉄社長、関西テレビ放送初代社長、宝塚歌劇団理事長
- 松岡辰郎(父[2])- 松岡汽船代表取締役社長、東宝代表取締役社長
- 松岡通夫(兄)- 松岡汽船代表取締役社長
- 小林喜美(姉)- 叔父・小林米三の養女、阪急電鉄相談役・小林公平の妻、阪急阪神HD取締役・小林公一の母
- 千波静(妻)- 元宝塚歌劇団雪組男役
- 松岡宏泰(長男)- 東宝東和取締役会長、東宝代表取締役社長 社長執行役員
- 松岡修造(次男)- タレント、元プロテニスプレーヤー
- 辻芳樹(長女の夫)- 辻調理師専門学校校長
- 田口惠美子(次男の妻)- 本名:松岡惠美子。元テレビ東京アナウンサー
- 辻雄康(孫)- 長女の息子。ラグビー選手
- 稀惺かずと(孫)- 次男・修造の娘。宝塚歌劇団星組男役
連載
演じた俳優
脚注
注釈
出典
- ^ “第60回「映画の日」中央大会開催、金賞は「妖怪ウォッチ」「ベイマックス」”. 映画.com (2015年12月2日). 2015年12月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 時評社 1992.
- ^ “2025年度日本アカデミー賞協会役員一覧” (PDF). 2025年8月19日閲覧。
- ^ 河井 1980, p. 229.
- ^ 「松岡辰郎」『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年、ま104頁 。
- ^ 松岡功「「私の履歴書」松岡功(1)芦屋生まれ―兄らと遊んだ高座の滝、幼稚園の遠足では苦い思い」『日本経済新聞』2016年6月1日、朝刊、40面。
- ^ 松岡功「「私の履歴書」松岡功(2)集団疎開―「ひもじさ」苦しみ知る、小学生ら90人、禅寺で暮らす」『日本経済新聞』2016年6月2日、朝刊、36面。
- ^ 財界 1985, p. 231.
- ^ a b 松岡功「「私の履歴書」松岡功(5)伊藤君―良きライバル、永き友、全日本ジュニア、ダブルスで優勝」『日本経済新聞』2016年6月5日、朝刊、32面。
- ^ a b 棚田真輔『スポーツ人風土記 下巻』道和書院、1975年、115頁 。
- ^ a b 松岡功「「私の履歴書」松岡功(6)甲南大へ―「テニスだけやっとれ」、教授の一言で慶応の誘い断る」『日本経済新聞』2016年6月6日、朝刊、32面。
- ^ 財界 1985, p. 232.
- ^ 山口奈緒美 (2021年11月16日). ““父は東宝会長、母は宝塚スター”松岡修造54歳に 熱すぎる男が現役時代にこぼした弱音「このまま死んでしまいたい」”. Number Web. 2024年7月29日閲覧。
- ^ a b 硲 1977, p. 121.
- ^ 財界 1985, p. 233.
- ^ 『東和の半世紀:1928-1978』東宝東和、1978年4月、336頁 。
- ^ 朝日 1990.
- ^ 硲 1977, p. 120.
- ^ 草壁久四郎「六月の映画から」『郵政』第29巻第6号、郵政弘済会、1977年6月、54頁。
- ^ 財界 1985, p. 229.
- ^ 政経人 1993, p. 114.
- ^ 政経人 1993, p. 118.
- ^ 政経人 1993, p. 117.
- ^ 「東宝(会社人事)」『日本経済新聞』1995年4月19日、朝刊、15面。
- ^ 「東宝(会社人事)」『日本経済新聞』2009年4月25日、朝刊、13面。
- ^ 「阪急電鉄(会社人事)」『日本経済新聞』1985年5月29日、朝刊、12面。
- ^ 「阪急阪神ホールディングス(会社人事)」『日本経済新聞』2015年5月16日、朝刊、12面。
- ^ 「フジ・メディア・ホールディングス(会社人事)」『日本経済新聞』2017年5月12日、朝刊、16面。
参考文献
- 田中文雄『神を放った男 映画製作者田中友幸とその時代』キネマ旬報社、1993年。ISBN 4-87376-070-4。
- 硲宗夫「東宝」『阪急商法の秘密:"商法の神様"小林一三の理念を生かす企業集団』日本実業出版社、1977年8月、120-130頁。NDLJP:11952654/64。
- 河井信太郎「映画人に四十歳以上はいらない 松岡功(東宝社長)」『鬼検事の浮世調書』毎日新聞社、1980年7月、229-238頁。NDLJP:12238683/118。
- 「財界」編集部 編「“その日のことは必ずやれ”若大将はデ杯元日本代表 東宝社長 松岡功」『社長23人のデータ・ブック:「日本のアイアコッカ」たちの知られざる私生活』サンケイ出版、1985年7月、229-237頁。NDLJP:11939775/117。
- 佐藤忠男「松岡功」『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年12月、1490頁。NDLJP:13215658/749。
- 「東宝社長 松岡功」『日本の経営者 : 1部上場全企業・社長の経営戦略と人物像 平成5年版』時評社、1992年10月、1231頁。NDLJP:13062231/637。
- 「映像文化の時代拓く 顧客満足重視の経営 東宝社長 松岡功」『政経人』第40巻第4号、政経社/総合エネルギー研究会、1993年4月、114-119頁、NDLJP:2742212/58。
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