東日本大震災での被災から資料の移管へ
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「新治汲古館」の記事における「東日本大震災での被災から資料の移管へ」の解説
新治汲古館は2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震で建物の一部が壊れ、館の運営と資料の管理が藤田家個人では困難な状況に陥った。この状況下では、最悪、館コレクションの散逸・遺棄の危険もあった。 7月2日、茨城大学において茨城県で被災した歴史・文化資料の救済活動のための緊急集会「東日本大震災 茨城の文化財・歴史資料の救済・保全のための緊急集会-文化財・歴史資料の救済のために、いま、何ができるのか-」が茨城大学の高橋修教授主催のもと開催される。この集会で新治汲古館の被災状況が筑西市教育委員会、桜川市教育委員会の担当者から報告され、研究者・文化財行政担当者で危機感が共有された。又、この集会では資料救済の為のボランティア組織である「茨城文化財・歴史資料救済・保全ネットワーク準備会(以下、「茨城史料ネット」)が設立され、以後、茨城史料ネットは新治汲古館資料救済活動に尽力する。 7月11日、茨城県教育委員会は文化庁へ、被災した文化財の救済を目的とした「東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援事業(=文化財レスキュー事業)」での新治汲古館資料救済の支援要請を出した。 館の資料救済のためには資料を現在の場所から安全な場所へ移動・移管する事が必要であった。ただこの時、藤田家が資料の移管については学芸員が常駐し一括して受け入れてくれる所、を要望していた事が課題としてあった。その為、茨城県、筑西市教育委員会、及び新治汲古館の隣市の桜川市教育委員会の3者協議が持たれ、結果、2011年9月に開館する真壁伝承館歴史資料館を持ち、かつ、学芸員がいる桜川市に新治汲古館の資料は一括移管されることになった。 移管は新治汲古館の資料を物理的にただ移し替えるだけでは無く、資料が新治汲古館のどの場所にどのように置かれていたか、などの付帯情報も付けて移管するという、方針で行われた。これは、新治汲古館を地域の貴重な遺跡の一つと見なし、その考古学的価値を損なわないように、埋蔵文化財における文化財保護の手段のひとつである「記録保存」の手法で移管前の館の状態を記録しておく、考えに基づいている。 ただし、実際に1万点超の考古学資料を適切に移管するには、文化財取扱いの経験がある作業員を大勢動員することが必要であった。そこで茨城史料ネットはボランティアの募集を、文化財レスキュー事業の支援を受け、行った。 2011年9月16日に館の収納状況調査が茨城史料ネットのメンバーである茨城大学の田中裕准教授らで行われ、館内見取図に沿って付けられた棚番号毎に展示資料の写真撮影・スケッチが行われた。この作業により、新治汲古館の展示状況を記録した資料が作成された。次いで、10月10日と10月11日の2日間に、筑西市教委、桜川市教委、茨城史料ネット及び募集に応じたボランティアら延べ80名の手によって実際の資料の移管作業が行われ、資料は桜川市の真壁伝承館等に無事移管された。 移管後、桜川市は2011年9月11日に開館した真壁伝承館歴史資料館の第2回の企画展として2012年7月28日から10月31日の会期で「新治汲古館の継承~文化財レスキューの一事例」を開催した。様々な人の手助けで受け継がれた新治汲古館のコレクションが、この企画展で紹介された。
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