東京高等師範時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:34 UTC 版)
1923年3月に兵庫御影師範学校を卒業後、20歳で上京し東京高等師範学校に入学すると、永岡秀一・桜庭武・橋本正次郎ら講道館の重鎮の元で、それ迄の試合本位の練習方法ではなく正しい技の指導を受ける事に。小谷曰く「最初のうちは随分苦しかった」との事だが、一方で学校の稽古の無い日や日曜日には下富坂の講道館総本山へ出稽古に通い、他大学の学生との練習を楽しんでいたという。講道館では指導員の中野正三に面白いように投げられたが、投げられまいと無理な踏ん張りや防御姿勢を取るような事はせず、2,30回も叩き付けられて礼をした後は這って更衣室に戻る事もあった。このような稽古が功を奏して自然と体捌きが体得され、当初は頭で考えながら掛けていた技も、無意識の内に繰り出せるようになっていったという。全盛時で身長162cm・体重69kgという小柄な体躯の小谷だったが、こうして磨かれた背負投を生涯の得意技として体得し体格で劣るハンデキャップを埋め、柔道評論家のくろだたけしはその様を“ズバリ切って落とす名刀の冴え”と絶賛している。 1926年の明治神宮大会(青年組4段の部)に出場した時、試合前の待合所ではソワソワして用を足したり寝転んでみたりと、自身の緊張を自認しつつ、事前に作戦や相手の得意技を考える事等はしなかった。一度試合場に上がってしまえば逆に落ち着き、雑念も一掃されて、組んだ時の手の感触を以て自然に技を掛ける事ができたという。その結果、予選リーグで香川の村井真一と静岡の瀬谷浩を破って福岡の豪勇・須藤金作と引き分け、同点決勝で再試合となった須藤を鮮やかな内股で一閃、決勝戦では東京学生柔道界ナンバーワンと云われた立教大学の山本武四郎に背負投で畳を背負わせて優勝を果たしている。 なお、当時の東京高等師範学校長は嘉納治五郎で、晩年に「小谷は能く自分の理想とする柔道を習得した」と満足気に語って海外へ柔道の視察・指導に赴く際は現地でデモンストレーションを行う為に随行したりもしている(後述)が、学生時代には嘉納と直接話をする機会は無く、講道館の紅白試合等で遠くから嘉納の顔を謁見する程度だった。卒業を間近に控えた1927年になって小谷とその同級生3,4人とで嘉納宅を訪ねた際、和服姿の嘉納はこの教え子らを快く迎え入れて暫く談笑した後に筆を取り、普段は書かない“丹心照萬古”等の揮毫を書いて小谷らに渡してくれた事が印象に残ったという。なお、この言葉の意味は“嘘・偽りなく真心より生じる行いはいつの世までも手本であり続ける”で、嘉納の書句ではあまり見られず数点が現存するのみである。
※この「東京高等師範時代」の解説は、「小谷澄之」の解説の一部です。
「東京高等師範時代」を含む「小谷澄之」の記事については、「小谷澄之」の概要を参照ください。
- 東京高等師範時代のページへのリンク