本塁打へのこだわり
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1971年に31本塁打、120打点で打点王になった頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王に協力を頼んで「ヒット打ちに行くのが基本。その延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったとのエピソードが残されている。大阪スタヂアムのオープン戦でのことであったが「そんなはずはありません。監督も王さんもホームラン狙いで大振りになっている」と自説を撤回しないばかりか、反論までしてきた門田に二人とも唖然としたという。また、挙句の果てに門田は「監督はずるい。王さんと口裏を合わせている」と野村に言い放ち、王は「大変な新人が入ってきたね」と呆れ、野村から「もう二度と教えてやらん」と怒鳴られたという。門田はあくまで長打にこだわった打撃を押し通し、「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。オールスター戦では、当時東映フライヤーズの大杉勝男が説得役に担ぎ出されたという。 当時の南海には門田の手本になるような左打者がおらず、そのことで悩んでいたが、ある日凡退したあとベンチの隅にある鏡の前の水道で手を洗ってふと鏡を見ると、次打者の野村克也が反転して左打者として映っていた。それ以来、門田は手を洗う格好をして「鏡の中の左打者」である野村の打撃フォームを熱心に観察・研究した。野村に話すと「参考になったやろ」と威張られるに決まっているからという理由で、門田は絶対にそのことは野村には言わなかったという。 フルスイングへのこだわりについて、門田は次のように語っている。「ろくでもない解説者が、あんなに強く振らなくても、軽く打てばホームランになるんですけど、と言うやろ。大間違いや。軽く振って本塁打にするにはどれだけ時間がかかるか知らんやつが言うこと。確かに思い切って振ってるうちは30本は超えん。でも、それが軽く振ってるように見えるのは、何万スイング、何十万スイングしているから、そう見えるわけよ。そこを超越せんと軽く打ってるようには見えんのよ」「ワシは朝のコケコッコから、とにかく時間を忘れてバットを振った。普通の奴は出来んから、俺は『変わり者』と言われるんやろな。そこまでやらな、こんな小さな体で500本も打てんじゃろ」。 2006年に野球殿堂入りした際のインタビューでも、「(上体を)ネジってネジってバチン! というスイングをする選手が最近は少ない。アウトコースを軽くミートして逆方向に打つホームランではロマンがない」と持論を展開している。 その頃のプロ野球の主力選手には珍しく大きな数字の背番号をつけており、しかも次第に大きくなっていった。1980年から使用した44番はハンク・アーロンなどメジャーリーグの強打者に多いことや、44歳で亡くなった母親の供養の意味で44本の本塁打を目標とする意図からつけられた。1981年に実際に44本塁打を放って本塁打王を獲得すると、次は60本に目標を切り替えて背番号を60とした。 本塁打王と打点王を獲得した1988年に、日本テレビ系列で放映された「追跡」の特集では、インタビュアーであった作家の安部譲二に同年ホームラン王を獲得できたことに関して、「ここ7・8年、どこの球場でも場外を打つことがホームランという気力でやれたこと」と語っていた。翌1989年に33本塁打を打った際も、本人曰く「ほとんどが打ち損ない」で満足いく打球が少なかったものの、それまでに「場外」を意識してきた積み重ねの結果が、打球が飛ばなくなってもフェンスを超えられた結果であるという。 バットに関しては「速い球を重たいバットで打てるなら、遅い球でも対応できる」という考えを持っていた。実際に門田が使用していたバットは長さ34インチ半、重さ1000gの特大バットであった。
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