本國寺の変と二条御所の建設
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「足利義昭」の記事における「本國寺の変と二条御所の建設」の解説
永禄11年10月26日、信長は京に一部の宿将とわずかな手勢を残して、美濃に帰還した。信長としてはこれほど早い畿内平定は予想外であり、兵糧などが欠乏していたと考えられる。 信長の兵が領国に帰還すると、三好三人衆の巻き返しに晒されることになった。三人衆は京都周辺から追われたものの、兵力は維持しており、反撃の準備を進めていた。信長の帰国は絶好の機会であり、四国から兵を呼び寄せ、畿内各地で蠢動した。 11月、義昭は三好三人衆の動きを警戒し、京都の東郊外にある将軍山城を整備し、京都の防衛を固めている。かつてここには、義昭の兄・義輝も籠城したことがあった。 12月24日、松永久秀が大和を離れ、岐阜にいる信長の下へと向かった。おそらく、信長に新年の賀辞を述べようとしたのであろうが、これにより京都の防備が手薄となった。 永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆はこれを見逃さず、京へと進軍し、将軍山城を焼き払った。そして、5日に京中に攻め入り、義昭のいた本圀寺を包囲・襲撃した(本圀寺の変)。 このとき、義昭も兄・義輝と同様の運命になるかとも思われた。だが、奉公衆および、 摂津の池田勝正・和田惟政・伊丹親興、河内の三好義継らが駆けつけて奮戦したことにより、6日にこれを撃退した。 信長はこの知らせを聞くと、すぐさま美濃を出国し、1月10日に京へと入った。また、信長に次いで、久秀も上洛し、信長の領国である尾張・美濃・伊勢のみならず、山城・近江・摂津・河内・和泉・若狭などから、総勢8万人が援軍として上洛した。 1月7日、義昭は大友宗麟に毛利元就との講和を勧め、13日には毛利氏に聖護院道澄を、大友氏に久我晴通を派遣し、互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとしたが、この計画は実現しなかった。 2月2日、義昭は信長に命じて、兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第、つまり二条御所の再興および増強を命じた。 4月14日、義昭の将軍邸が完成した。この御所は二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなったことから、二条城とも呼ばれる。ここには、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々と出仕し、義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。
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