本國寺の変と二条御所の建設とは? わかりやすく解説

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本國寺の変と二条御所の建設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「本國寺の変と二条御所の建設」の解説

永禄11年10月26日信長は京に一部宿将わずかな手勢残して美濃帰還した信長としてはこれほど早い畿内平定予想外であり、兵糧などが欠乏していたと考えられる信長の兵が領国帰還すると、三好三人衆巻き返し晒されることになった三人衆京都周辺から追われたものの、兵力維持しており、反撃準備進めていた。信長帰国絶好機会であり、四国から兵を呼び寄せ畿内各地蠢動した。 11月義昭三好三人衆動き警戒し京都東郊外にある将軍山城整備し京都防衛固めている。かつてここには、義昭の兄・義輝籠城したことがあった。 12月24日松永久秀大和離れ岐阜にいる信長の下へと向かった。おそらく、信長新年の賀辞を述べようとしたのであろうが、これにより京都防備手薄となった永禄12年1569年1月5日三好三人衆はこれを見逃さず、京へと進軍し将軍山城焼き払った。そして、5日京中攻め入り義昭のいた本圀寺包囲襲撃した本圀寺の変)。 このとき、義昭も兄・義輝同様の運命になるかとも思われた。だが、奉公衆および、 摂津池田勝正和田惟政伊丹親興河内三好義継らが駆けつけ奮戦したことにより、6日にこれを撃退した信長はこの知らせ聞くと、すぐさま美濃出国し1月10日に京へと入ったまた、信長次いで、久秀も上洛し、信長領国である尾張美濃伊勢のみならず山城近江摂津河内・和泉若狭などから、総勢8万人援軍として上洛した。 1月7日義昭大友宗麟毛利元就との講和勧め13日には毛利氏聖護院道澄を、大友氏久我晴通派遣し互いに講和して三好氏本拠である阿波出兵させようとしたが、この計画実現しなかった。 2月2日義昭信長命じて、兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第、つまり二条御所再興および増強命じた4月14日義昭将軍邸が完成した。この御所二重の水堀囲い、高い石垣新たに構築するなど防御機能格段に充実させたため洛中平城呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなったことから、二条城とも呼ばれる。ここには、室町幕府代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々出仕し義昭念願であった室町幕府は完全に再興された。

※この「本國寺の変と二条御所の建設」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「本國寺の変と二条御所の建設」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

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