本国行政府の粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 15:22 UTC 版)
「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「本国行政府の粛清」の解説
エドワード3世が不在である間、イングランド本国ではスコットランドに対する警戒や日常行政費など負担の増大、王の不在による行政機能低下などの問題に直面していた。さらに免税特権の停止や国庫納付金の分割納付禁止に対する貴族の反発も強まっていた。そのためエドワードの負債は増す一方であり、待望の軍資金はいつまでたっても前線に送られてこなかった。これを危惧したエドワードは1339年秋にカンタベリー大司教ジョン・ド・ストラトフォード(英語版)に王の海外での債務履行の全権を与えるとともに本国政府指導を任せた。 ストラトフォードは二度にわたって議会を招集し、課税同意を求めるも結論が得られず、前述の1340年初頭のエドワードの一時帰国でようやく収穫物の九分の一を王に与える同意が得られた。しかしこれを査定徴収して現金化するには半年以上かかるうえ、民衆の抵抗にあって徴税も停滞し、9月まで軍資金の当てはつかなかった。エドワードが多額の負債を抱えてエスプルシャン条約締結を余儀なくされたのはそのためだった。 エドワードと前線の主戦派側近たちはこの失態はひとえにストラトフォードを筆頭とする聖職者や文官が指導する本国政府の戦争非協力が原因と断定した。報復を決意したエドワードは、1340年11月30日にイングランドに突如帰国し、本国行政府の粛清を開始した。ストラトフォードは職務を解かれてカンタベリーに戻り、大法官や財務府長官(英語版)を務めていた二名の司教も解任された。中央や地方の役人も次々と罷免あるいは逮捕された。そのうえでエドワードは徴税の遅滞を許さない強硬措置をとるよう財務府に命じた。またウィリアム・ド・ラ・ポール(英語版)など共同事業組合の羊毛商人も投獄している。エドワードは共同事業組合の失敗のせいで困難な状況に追い込まれたと考えていた。 さらにストラトフォードに対して海外の多額債権者の人質になることを求めたが、ストラトフォードはこれを拒否し、「王権は諸侯や教会の制約を受ける」と説き、マグナ・カルタ遵守と議会招集を求めた。貴族たちがその主張を支持したため、エドワードとしてもこれ以上ストラトフォードら聖職者たちと対立するわけにはいかず、1341年の議会で彼らと和解した。
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