本国海域での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 02:08 UTC 版)
「シドニー・スミス (軍人)」の記事における「本国海域での活動」の解説
1801年にイギリスに帰ると、スミスはその功績に対して若干の栄誉と1,000ポンドの年金を受けることになった。しかし彼の栄誉は、コペンハーゲンの海戦の勝者として喝采をもって迎えられていたネルソンによって再び影を薄められてしまった。短期間に終わったアミアンの和約の期間、スミスは1802年の総選挙においてケントのロチェスター選挙区から下院議員に選出された。彼に関して、キャロライン・オブ・ブランズウィック(イギリス皇太子の別居中の妻)と関係を持ったという強い疑いがもたれている。しかし、彼女の妊娠については、彼女には同時に何人かの恋人(例えばジョージ・カニングや画家のトマス・ローレンスなど)がいたことが知られており、子供がスミスのものであった可能性は少ない。のちに愛人の噂はキャロラインとの離婚を望むジョージ4世から賄賂を受け取った人物の偽証であり、子供はキャロラインが貧しい母親に代わって養育していた子供であったとされている。 1803年のフランスとの戦いの再開によって、スミスは北海南部のオーステンデとフリシンゲンの間の海岸の沖合で、ナポレオンの侵入軍の脅威に対抗する部隊の一部として任務に就いた。 新しく、また奇抜な戦法に興味を持っていたスミスは、1804年と1805年に、アメリカの発明家ロバート・フルトンと一緒に仕事をした。フルトンは、フランスおよびベルギーの海岸に集まっているフランス侵入艦隊を破壊するための機雷の開発を計画していた。しかし、新兵器をコングリーヴ・ロケットと組み合わせてブローニュを攻撃する試みは、悪天候と、出動したフランス砲艦によって失敗に終わった。この挫折にもかかわらず、カディスのフランス・スペイン連合艦隊に対してロケットと機雷の組み合わせで攻撃を行うという提案が行われたが、連合艦隊は1805年10月にトラファルガーの海戦で壊滅したため、実施されることはなかった。
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