木下学校からテレビ、独立系映画へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 18:00 UTC 版)
「吉田義昭」の記事における「木下学校からテレビ、独立系映画へ」の解説
1932年(昭和7年)1月8日、青森県青森市に生まれる。 1950年(昭和25年)3月、青森県立青森高等学校を卒業、満20歳を迎えた1952年(昭和27年)に東京に移る。松竹大船撮影所の助監督会がシナリオを募集、これに応募して家城巳代治に認められる。木下惠介のいわゆる「木下学校」門下の松山善三に師事した。確認できるもっとも早い時期の仕事は、1959年(昭和34年)10月8日にフジテレビジョンで放映を開始した松竹製作のテレビ映画『駅の伝言板』であり、そのうち7話を魚住大二と共同で脚本執筆している。1961年(昭和36年)7月5日にTBSテレビで放映を開始した『純愛シリーズ』でも数話を手がけており、なかでも村木良彦(1935年 - 2008年)が演出した『青春』(第103回)が知られており、同作の野心的斬新さはのちに今野勉(1936年 - )が著書『テレビの青春』で吉田の書いたセリフを引用、特筆している。 1964年(昭和39年)9月9日にフジテレビジョンで放映を開始した松竹製作の連続テレビ映画『結婚の設計』では、梶山季之の原作をもとに吉岡道夫(1933年 - )とともに脚本を手がけており、当時、日本シネマや国映を中心として独立系成人映画の脚本を手がけていた吉岡 同様に、吉田も小森白が製作・監督した成人映画『日本拷問刑罰史』に脚本を提供、同作は同年10月27日に公開された。1965年(昭和40年)2月に公開された『しゃぶりつくせ』(監督南部泰三)にも脚本を提供しており、渡辺護の回想によれば、吉田の同作における「殺し屋の美学」がよかったという。元俳優の斎藤邦唯(1929年 - )が同年4月に扇映画プロダクションを設立、映画製作を開始するにあたり、渡辺に成人映画を撮れる監督の紹介を依頼、渡辺はかつて師事した西條文喜(1921年 - 1988年)を推薦、吉田とともに脚本を準備している。吉田と渡辺が準備した脚本の完成段階で西條が降板、急遽、渡辺が監督に起用され、同作は渡辺の監督第1作『あばずれ』として、同年6月に公開されている。同作での吉田は「吉田貴彰」とクレジットされており、以降同名で、『紅壺』(1965年10月公開)、『女の狂宴』(1966年2月公開)、『のたうち』(1966年5月17日公開)、『情夫と情婦』(1967年4月公開)と合計5作の渡辺の初期作品を手がけた。1967年(昭和42年)9月26日に放映を開始した、放送作家の青島幸男が主演した連続テレビ映画『意地悪ばあさん』や、1970年(昭和45年)9月19日に放映されたテレビ映画『日本怪談劇場』第12回『怪談乳房の呪い』(監督松永利昭)にも脚本を提供している。
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