最高裁判所長官時代
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「ロジャー・トーニー」の記事における「最高裁判所長官時代」の解説
裁判官としてのトーニーは、ジャクソン大統領から任命を受けた他の多くの裁判官と同様に、州が強い権限を持つことを好んだ。これは前任のジョン・マーシャルとは異なる価値観であり、そのためしばしば、マーシャル時代に下された判決とは異なる判決が下されることがあった。 例えば1819年のダートマス大学対ウッドワード事件(17 U.S. 518)においてマーシャルは、州知事が任命する理事会をダートマス大学に設置させようとしたニューハンプシャー州議会の決議は違憲であるという判決を下し、企業に対する州の干渉や統制を積極的に排除した。一方トーニーは、1849年のスミス対ターナー事件(48 U.S. 283)において州の権限を拡張する判決を下し、州における改革的な経済政策を支持した。 だがトーニーの州権限を拡張する考えは、1857年のドレッド・スコット対サンフォード事件において南部における奴隷制維持を認める判決へとつながった。この裁判では、北部の自由州に主人とともに移住した奴隷のドレッド・スコット(英語版)が自由人の身分を獲得したといえるかどうかが争われたが、トーニーは自由州への居住が自由身分の獲得を意味しないとの判断を下した。 この判決は後に南北戦争に至る原因を作った1つとも言えるものであったが、戦時中も彼は長官の地位に留まり続けてリンカーン大統領の政策に掣肘を与えた。
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最高裁判所長官時代
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「フレデリック・ヴィンソン」の記事における「最高裁判所長官時代」の解説
1946年6月に最高裁判所長官に就任したが、この時最高裁判所は大きく2つの派閥に分裂していた。一方は南部出身のヒューゴ・ブラック、もう一方はニューヨーク出身のロバート・ジャクソンであった。互いに会話をしたことも無い裁判官もいたが、ヴィンソンは少なくとも個人的なレベルではこの亀裂を修復することに成功した。 最高裁判所長官として、77の判決の主文理由と13の判決の反対意見を執筆した。その反対意見の中で最も注目的なものは、1952年6月3日に下されたヤングスタウン・シート・アンド・チューブ社対チャールズ・ソーヤー商務大臣の判決である。この裁判は鉄鋼業界のストライキを回避するためにトルーマン大統領が行使したタフト・ハートリー法の合憲性を問うものであった。最高裁判所はタフト・ハートリー法の行使は認めたが、同時にタフト・ハートリー法を違憲であると判断した。
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