時期と地域、犠牲者数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:19 UTC 版)
魔女狩りはかつて「長期にわたって全ヨーロッパで見られた現象」と考えられていたが、現代では時期と地域によって魔女狩りへの熱意に大きな幅があったことがわかっている。全体として言えることは、魔女狩りが起きた地域はカトリック、プロテスタントといった宗派を問わないということであり、強力な統治者が安定した統治を行う大規模な領邦では激化せず、小領邦ほど激しい魔女狩りが行われていたということである。その理由としては、小領邦の支配者ほど社会不安に対する心理的耐性が弱く、魔女狩りを求める民衆の声に動かされてしまったことが考えられる。 時期を見ると16世紀後半から17世紀、さらに限定すると中央ヨーロッパでは1590年代、1630年頃、1660年代などが魔女狩りのピークであり、それ以外の時期にはそれほどひどい魔女狩りは見られなかった。 地域別に見るとフランスは同じ国内でも地域によって差があった。ドイツでは領邦ごとの君主の考え如何で魔女狩りの様相に違いがあった。イタリア、ヴェネツィアでは裁判は多かったが、鞭打ちで釈放され、処刑はほとんどなかった。スウェーデンでは強力な王権の下で裁判手続が厳守されており、三十年戦争期には占領したドイツ領邦で魔女狩りを抑止していたが、17世紀中頃より大規模な魔女狩りが発生している。スペイン(バスク地方を除く)では異端審問が行われていたが、これが魔女狩りに発展することはなかった。オランダでは1610年を最後に魔女が裁判にかけられていない。ポーランド、少し遅れて18世紀のハンガリーでは激しい魔女狩りが起こった。イングランドでは1590年代がピークであったがすぐに衰退した。対照的に、イングランドに隣接し1717年以降同君連合を形成していたスコットランドでは1590年代から1660年代と長きにわたっており、一方、アイルランドではほとんど見られなかった。北アメリカの植民地ではあまり見られなかったが、1692年にニューイングランドのセイラムで起こった大規模な魔女騒動(セイラム魔女裁判)が例外的な事件であった。それゆえに人々に衝撃を与え、独立後もアメリカ合衆国の歴史に暗い影を落とした。同時に、魔女狩りの当事者による公的な謝罪が行われた唯一の事件でもあった。 魔女狩りの犠牲者に関しての最も極端な説は、18世紀の歴史家ゴットフリート・クリスティアン・フォイクト(英語版)の用いた算出方法に基づく900万人である。これはあまりに極端であるとしても、かつて魔女狩りについて(客観的な根拠がないまま)犠牲者数が数十万人から数百万人と見積もられていた時代もあった。しかし近年行われている一次史料からの推計に基づいた1428年から1782年までの魔女裁判による全ヨーロッパの処刑者数は、ヴォルフガング・ベーリンガー(英語版)、ロビン・ブリッグス (Robin Briggs)、ロナルド・ハットン(英語版)といった研究者らが各々提示している推定値を共約すると最大4万人となる。なお、地域共同体内での私刑にあった者の数を知ることは全く不可能なため、この犠牲者の数には含まれない。 1782年にスイスで行われた裁判と処刑が、ヨーロッパにおける最後の魔女裁判であるとされる。
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