明治女性の気概教育とは? わかりやすく解説

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明治女性の気概・教育

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 14:20 UTC 版)

森本治枝」の記事における「明治女性の気概・教育」の解説

森本治枝次男天文学者森本雅樹国立天文台鹿児島大学名誉教授)によると、治明治女性らしい気概凛とした精神持ち、「理屈に合うこと、正しいと信ずるなら、何でもする人」だった。 1954年昭和29年)夫の清吾が群馬大学教授就任4年急逝享年54)。その後女手一つ子供4人を育て上げ長男の治数学者大阪市立大学名誉教授)、三男の芳経済学者九州大学経済学部長で名誉教授)、四男の英生物物理学者(元大阪大学助教授)と、子供4人とも第一線研究者になったのは、治が「世間批判とか、そんなものは全く理解しないというか、気にしなかった」精神のおかげ、と雅懐古している。なお、4兄弟の名前を、「(治の)」よりも大きな」になるように、との願い込めて名付けている。 治終始一貫した性格と強い意志持ち主で、子供4人についても容赦しなかった。次男の雅幼少期天体望遠鏡顕微鏡買ってもらったが、「四人兄弟の公平を期すという理由で『遺産前払い』とされた」。その雅1993年亡き父・清吾ゆかりの学校法人共愛学園(=清吾の父(舅)で「群馬近代蚕糸業の祖」深澤利重創設)にて講演した際、母である治最前列陣取り3時間もの長い講演聞き続けたあげく、「何だか(雅話した内容が)とりとめなかった」と辛口批判している。 治晩年口癖は「何か面白いことない?」。明治から平成まで4世代、社会価値観激変する中で、「大らか前向きな気持ちを常に持ち続け」、入院し酸素吸入する状況になっても、横たわるベッドから「立たせて」と子や孫にせがんだ。「ちゃんと立てないと家に帰れない」と述べ最期まで「信念女性」だった。 治1995年平成7年)に死去享年92)、葬儀・告別式日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂ニコライ堂)で営まれ長男の治喪主務めた。もともと夫の清吾がキリスト教正教徒信徒のため結婚後に洗礼受けたが清吾の死後教会から足も遠のいていた。ただ、最期迎える時も治愛情と「理屈」を均等に重んじ、「私が(仏式で)極楽行ったのでは(天国の清吾に)会えない」として、清吾と同じ場所での葬儀埋葬式)を希望学者夫婦41年ぶり“天国”で再会果たした

※この「明治女性の気概・教育」の解説は、「森本治枝」の解説の一部です。
「明治女性の気概・教育」を含む「森本治枝」の記事については、「森本治枝」の概要を参照ください。

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