旧拉致議連の混乱
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旧拉致議連において当初中山は、拉致被害者の横田めぐみの両親と衆議院議員会館で共同会見を行い「拉致問題が解決するまでは北朝鮮に対して食糧支援を行わない」と発言するなど強硬な姿勢を見せ、議連も一致してその原則で臨んでいた。 しかし中山は1997年11月に平壌を訪問して以降、急きょ各方面に日本人拉致事件そのものを否定する説を発表するなど不可解な行動をとるようになった。中山は、野中広務の意を受け外務省とも連携しながら水面下で交渉を続け、1999年には5回の秘密交渉を持った。一方、1998年には拉致議連会長のまま日朝友好議員連盟の会長に就任し、「拉致問題は幽霊のように実体のないもの」と述べ、「まず北朝鮮との国交正常化を行った後に拉致問題の解決を行うべき」と発言するなど、自身の従来の見解とも矛盾する北朝鮮寄りの言動が顕著になった。こうした中山の豹変に対し、マスメディアや「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)からは疑念と批判の声が上がった。また中山の行動が影響し、旧拉致議連参加議員の中から日朝友好議員連盟にも重複加入する議員が現れるなど混乱が生じるようになり、旧拉致議連は活動休止状態に陥った。 2002年3月12日、よど号グループ柴田泰弘の妻だった八尾恵が東京地方裁判所で、自分がロンドンにいる有本恵子を騙して北朝鮮に連れて行ったと証言した。これを受けて、政府による拉致認定は「7件10人」から「8件11人」となった。中山は「7件10人」を事実上棚上げしたうえで有本の拉致を「よど号グループ」が勝手にやったこととして「解決」しようとした。有本の事例を「日本人が日本人が拉致したもので、北朝鮮は関係ない」(2002年3月15日)という理屈で、これならば北朝鮮を傷つけることなく譲歩を引き出しやすいと考えたのである。中山はまた、2002年3月20日、有本恵子の母・嘉代子に電話をかけ、「日本人が日本人を連れていったもので、北朝鮮の工作員が関与していないという話の方が有本さんを帰国させやすい」と説明したほか、北朝鮮で会わせることを持ちかけた。また、「『救う会』の運動から手を引けば平壌に連れて行って恵子さんと会わせてやる。私を取るか、『救う会』をとるか」と二者択一をせまった。それに対し嘉代子は、「救う会を取ります」と回答して電話を切った。中山は、政府が北朝鮮による拉致容疑を「8件11人」に修正した直後、「有本さんを拉致事件に加えたのはよくない」と自民党の会議で公言し、自身の構想が崩れたことへの不快感を表した。 こうした中山の言動に対し、かつての同志であった石原慎太郎東京都知事は「被害者の家族への恫喝か、加害者たるテロ国家への気配りなのか、何ゆえのへつらいなのか」と批判した。会長自らそれまでの方針を勝手に翻し、このような言動を行ったことで「家族会」(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)の疑念を生むこととなり、議連メンバーや「家族会」「救う会」関係者、また、自身の支援者からも批判を浴びた中山は「日朝友好議員連盟会長」と「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」の両会長から退いた。 旧拉致議連は後任人事について桜井新幹事長と西村眞悟事務局長代理に一任し、同年4月3日、両名の協議の結果「体制一新が必要」との判断に達し、旧議連を解散することとした。
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