旧寄宿舎の再開と、自治の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)
「京都大学吉田寮」の記事における「旧寄宿舎の再開と、自治の始まり」の解説
1906年1月、木下総長は旧寄宿舎を再開し、新たな舎生を募集すると告示した。寄宿舎が「学生ノ研学修養上重要ナル一機関」であるためには、「規律アリ制裁アル一ノ切磋団体」を作らねばならず、その基礎を固めるためにも、今度は入舎希望者の中から学生監に相応しい者を選抜させるとした。学生監は実際に入舎選考を行い、2月8日までに58名の新入舎生を入舎させた。なお、半数の29名は北田ら自彊会の会員が占めていた。大学当局は自彊会に旧寄宿舎の運営を委託したという見方ができる。 新入舎生たちは木下の期待に応えようと意気込んでおり、2月10日の入舎式では一致団結して学風刷新を実行する旨を宣言した。舎生たちはまず、自治組織の整備に着手した。意思決定機関は「舎生総会」と「総代会」に定められた。舎生総会は定足数があり、多数決制だった。総代会は各部屋を代表する十数名の「総代」からなっていた。総代会は「専務総代」三名を互選して、日常の事務の執行に当たらせた。総代会は「共同生活を害するもの」に「相当の制裁」を加える権限も持っていた。専門部の園芸部も設けられた。舎生の募集は年中行い、入舎希望者の入舎の可否は、総代会の諮詢(しじゅん)を経て、学生監が決定することになった。 再開直後の旧寄宿舎では集団主義(集団の秩序)を自治を発展させる美徳、個人主義(個人の自由)を自治を腐らせる悪徳とみなす価値観が広く共有されていた。この価値観は自彊会創設メンバーのものに他ならない。しかし再開から数年が経過し、舎生の顔ぶれが入れ替わると、個人主義を忌避することに疑問を呈する者も現れるようになった。1910年2月、舎生大山壽は「寄宿舎誌」第一号に「切磋団体問答」という文章を発表した。大山は「個人主義は個人中心主義であると同時に個人開発主義である」と定義し、「個人の開発あつて初めて団体の発展があり、個人を重し之を中心とする時に初めて団体に活気を生すると思ふ。個人主義は寧ろ奨励すべきもの、否な奨励する必要があると思ふ。吾が舎にして今個人主義の意義を明らかにしその上に基礎を立てなければ永久の発展は望み難いと思ふ」と個人の自由の尊重を訴えた。1911年2月には舎生佐藤穏徳が「舎誌」で寄宿舎の理念をばっさりとこき下ろした。「当時の舎生が望んだ切磋、而して今の舎生が継承した切磋といふのは、誰もかれも一つ型にいれるといふのである。はまらない所は実際に切り去らうといふのである。余つた所はホントにけづり落すといふのである。如何なる舎生も剛健になれ、己に克て、そして国士になれといふのである。僕はドー考えても此切磋観には満足できない」佐藤は以後も茶話会で寄宿舎の理念を批判し続けた。
※この「旧寄宿舎の再開と、自治の始まり」の解説は、「京都大学吉田寮」の解説の一部です。
「旧寄宿舎の再開と、自治の始まり」を含む「京都大学吉田寮」の記事については、「京都大学吉田寮」の概要を参照ください。
- 旧寄宿舎の再開と、自治の始まりのページへのリンク