旧寄宿舎の開舎とは? わかりやすく解説

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旧寄宿舎の開舎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)

京都大学吉田寮」の記事における「旧寄宿舎の開舎」の解説

1897年6月18日京都帝国大学設置に関する勅令制定された。京都帝国大学旧制三高一条通南側現在の京都大学吉田キャンパス吉田南構内)に移転させ、旧制三高校舎施設をしばらく利用した1897年9月11日、旧々・京都帝国大学寄宿舎が、京大本部事務室一角借りて開舎した。当時の舎生は24名、大学の総学生数は53名だった。1898年8月京大旧制三高寄宿舎建物譲り受けて、旧・京都帝国大学寄宿舎を開舎した。旧々寄宿舎の舎生は旧寄宿舎に、旧制三高寄宿舎の舎生は二本松地区の自由寮に、それぞれ引っ越しした日露戦争終結した1905年の秋、この状況危機感持った北田正平外山岑作、平野正朝、勝山勝司ら「寄宿舎改革グループ」は、旧寄宿舎秩序もたらすために立ち上がり、舎生の自由を束縛しない範囲内規約作ること、舎内の事務整理する役職設置すること、秩序乱した者を罰することの三点を舎生全員に対して建議した。この改革案を議論するために、臨時で舎生の総会開かれた旧寄宿舎出来てからというもの、これほど多くの舎生が真面目に物事議論するために集まったのは初めてのことだった。しかし大多数の舎生は、これに反対であった数人の舎生は「大學寄宿舎斯かる幼稚な規則設く可き處に非ず」「今一時の弊に鑑みて規則設けんとする如き寄宿舎根本理想没却するものなり」と理想的見地から反対するとともに、「之れ(舎の腐敗)は舎生が悪いからであって舎生の淘汰を行ひて善良なる舎生のみとすれば現状儘で少しも差支なし」と主張した。なお、大半の舎生は個人主義個人の自由)は集団主義集団秩序)に優越するので規約役職必要ないという旨の主張をした。結局総会提起者を除くほぼ満場一致でこの改革案を葬りさった。

※この「旧寄宿舎の開舎」の解説は、「京都大学吉田寮」の解説の一部です。
「旧寄宿舎の開舎」を含む「京都大学吉田寮」の記事については、「京都大学吉田寮」の概要を参照ください。

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