旧寄宿舎の開舎
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1897年6月18日、京都帝国大学設置に関する勅令が制定された。京都帝国大学は旧制三高を一条通の南側(現在の京都大学吉田キャンパス吉田南構内)に移転させ、旧制三高の校舎や施設をしばらく利用した。1897年9月11日、旧々・京都帝国大学寄宿舎が、京大本部事務室の一角を借りて開舎した。当時の舎生は24名、大学の総学生数は53名だった。1898年8月、京大は旧制三高寄宿舎の建物を譲り受けて、旧・京都帝国大学寄宿舎を開舎した。旧々寄宿舎の舎生は旧寄宿舎に、旧制三高寄宿舎の舎生は二本松地区の自由寮に、それぞれ引っ越しした。 日露戦争の終結した1905年の秋、この状況に危機感を持った北田正平、外山岑作、平野正朝、勝山勝司ら「寄宿舎改革グループ」は、旧寄宿舎に秩序をもたらすために立ち上がり、舎生の自由を束縛しない範囲内で規約を作ること、舎内の事務を整理する役職を設置すること、秩序を乱した者を罰することの三点を舎生全員に対して建議した。この改革案を議論するために、臨時で舎生の総会が開かれた。旧寄宿舎が出来てからというもの、これほど多くの舎生が真面目に物事を議論するために集まったのは初めてのことだった。しかし大多数の舎生は、これに反対であった。数人の舎生は「大學の寄宿舎は斯かる幼稚なる規則を設く可き處に非ず」「今一時の弊に鑑みて規則を設けんとするが如きは寄宿舎根本の理想を没却するものなり」と理想的見地から反対するとともに、「之れ(舎の腐敗)は舎生が悪いからであって舎生の淘汰を行ひて善良なる舎生のみとすれば現状の儘で少しも差支なし」と主張した。なお、大半の舎生は個人主義(個人の自由)は集団主義(集団の秩序)に優越するので規約も役職も必要ないという旨の主張をした。結局、総会は提起者を除くほぼ満場一致でこの改革案を葬りさった。
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