日本史上の親衛隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 04:59 UTC 版)
日本史上では律令制下において、近衛府の唐名として羽林とともに「親衛」の語が使われた。ただし、これは一般的な用例ではない。従って「近衛」と「親衛」という語は厳密には同義とはいえないが、事実上、同じと見てさしつかえない。皇太子の親衛隊としては、春宮坊(とうぐうぼう)舎人監(とねりげん)に属する東宮舎人(とうぐうとねり)から30人が選ばれた帯刀舎人(たちはきのとねり)が任務に当たった。 9世紀以降、律令制の崩壊に伴い、それまで天皇の警護を司っていた大伴氏を長とする衛府が実質を失ってゆく。これに代わり蔵人所の滝口(滝口武者)と呼ばれる武士が大内(皇居)警護の役割を担うようになった。清和源氏嫡流の摂津源氏は、代々、大内守護の任についた。 11世紀末には、院政を行った白河法皇により院御所に詰めて上皇を護衛する武士集団として北面武士が創設され、後の後鳥羽上皇は加えて西面武士を組織した。なお、前者が主に寺社の強訴を防ぐための院の直属軍として創られたのに対して、後者は鎌倉幕府に対抗するための軍事力とされる。また、法的には皇太子の親衛隊であるはずの帯刀舎人も、院の軍事力に組み込まれた。公家政権(朝廷)と武家政権(幕府)が対立した承久3年(1221年)の承久の乱で幕府側が勝利すると、北面武士は縮小されて御所の警備隊程度の存在となり、西面武士は解体された。 戦場で軍旗を守る武士団は旗本と呼ばれ近衛兵のような働きをしていた。さらに、武士が台頭してくると、大名の側近として親衛隊的な役割も果たす馬廻が登場する(馬廻衆)。室町時代に、3代将軍足利義満が将軍直属の軍事力として御馬廻の整備を始め、9代将軍足利義尚が奉公衆を確立するに至った(明応2年(1493年)の明応の政変で事実上解体された)。 明治維新後は、宮内省侍従職の内舎人が天皇の身辺警護にあたり、陸軍の近衛師団(前身は御親兵)、宮内省の皇宮警察は、宮城の警護及び儀仗を担当した。 太平洋戦争後は、警察庁に移管された皇宮警察本部が皇居・離宮の警護及び儀仗の任務を担当している。現在の皇宮警察の英語表記は、近衛兵や親衛兵を意味する「Imperial Guard」であり事実上の皇室の親衛隊となっている。また、皇居に隣接する北の丸公園に警視庁第一機動隊の本部が置かれており、皇居の外側は第一機動隊が警備している。このことから「近衛の一機」の通称がある(一機隊長の階級は警視正で、有事には他の機動隊と連隊を組み、総指揮官たる連隊長となることもある)。なお、自衛隊には親衛隊に相当する部隊は存在しない。
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