日本史上のハンセン病とは? わかりやすく解説

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日本史上のハンセン病

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 04:43 UTC 版)

ハンセン病の歴史」の記事における「日本史上のハンセン病」の解説

日本のハンセン病問題」も参照 ハンセン病日本でも古くから知られ奈良時代光明皇后医療施設である「施薬院」「悲田院」を皇后宮職として設置したほか、らい病患者の膿を吸い取り臭気ただよう患者背中の垢を擦った伝説史書のこっている。考古資料としては、中世鎌倉遺跡である由比ヶ浜南遺跡発掘調査で、ハンセン病による変病骨が発見されている。 日本では古代中世にはこの病気仏罰神罰現れたる穢れ考えられており、発症した者は非人身分編入されるという不文律があり、一般人びとのみならず肉親さらに官僧からも忌避される存在であった。これにより、都市では重病者が各地悲田院奈良北山十八間戸鎌倉極楽寺などの施設収容され衣食住供された。北山十八間戸極楽寺は、「非人救済」に尽力した忍性中心とする律僧教団指導者叡尊)によって開かれた施設である。 戦国武将大谷吉継ハンセン病患者であったことが知られ面体を白い頭巾隠して戦場臨んだことはよく知られるまた、茶会での自らに対す石田三成振る舞いに吉継が感激し関ヶ原の戦いでは三成味方をする決意をしたとされるエピソード著名である。江戸時代には、発症すると、家族患者四国八十八ヶ所熊本加藤清正公祠などの霊場巡礼に旅立たせることが多かったこのため、これらの地に患者多く物乞をして定住することになった。なお、江戸時代後期遺跡とみられる青森県畑内遺跡26土坑墓から出土した古病理学的にハンセン病診断される人骨の上顎から、らい菌DNA検出された。この人骨は東北大学総合学術博物館所蔵されている。 幕末以降日本訪れた欧米人は、欧米とくらべ当時日本では桁違いハンセン病患者数が多いことに強い印象を受け、明治維新以降キリスト教主義による救いの手さしのべた日本人仏教者の綱脇龍妙身延深敬園設立してらい病患者救済乗り出した政府も、らい病患者寺社周辺などへの集住状態を解消すべく療養所への隔離政策が行ったが、そのなかで救らい」の名目近世までとは異なった形での患者迫害生じた詳細後述)。

※この「日本史上のハンセン病」の解説は、「ハンセン病の歴史」の解説の一部です。
「日本史上のハンセン病」を含む「ハンセン病の歴史」の記事については、「ハンセン病の歴史」の概要を参照ください。

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