日本の教育方法学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 20:32 UTC 版)
「日本教育史」も参照 明治に至るまでの寺子屋・藩校などでは自学自習・手習い・暗唱など、模倣と習熟を伝統としていた。 日本での授業・授業研究の出発点は「学事奨励に関する多い仰出書」(1872年)による近代学校の成立とその制度化にある。 その後、大正自由教育運動などの新教育運動が起こり、ドルトン・プランなどが取り上げられた。しかし、昭和期においては戦時色が強くなり、ファシズム教育へと収斂していった。 第二次世界大戦の後、国家中心の教育から子ども中心の教育への転換が試みられた。しかし、「這い回る経験主義」という批判もあったほか、基礎学力の充実に対する要望、修身科の復活要望等もあった。そして、1958年版に行われた学習指導要領は「官報による告示」がなされ、法的拘束力を持つカリキュラムとなった。この学習指導要領は、系統学習の色合いが強いものであった。 その後、授業の科学的研究が進み始めた。1963年に雑誌『授業研究』が創刊され、1964年には日本教育方法学会が結成された。また、現職教諭の研修制度も整えられ、そこで教育方法学が扱われるようになった。諸外国の教育方法・授業分析の理論が導入され、心理学の授業への応用が模索された。 また、1960年代以降、「教育方法の現代化」の取り組みが各所で行われ、各種の教材プログラムの開発が盛んになった。主なものには、遠山啓の「水道方式」(数学)、板倉聖宣らの「仮説実験授業」(理科)、細谷純・高橋金三郎らが開発した「極地形式」(理科)、明星学園をベースに開発された「にっぽんご」(国語)などがある。 1980年頃以降は、校内暴力・いじめ・学級崩壊など「教育方法の現代化」以降の課題解決に方向が向いてきているほか、コンピュータ・マルチメディアを応用した教育工学的なアプローチも研究・実践されている。
※この「日本の教育方法学史」の解説は、「教育方法学」の解説の一部です。
「日本の教育方法学史」を含む「教育方法学」の記事については、「教育方法学」の概要を参照ください。
- 日本の教育方法学史のページへのリンク