日本における餓死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 22:02 UTC 版)
千葉県松戸市の本土寺に保管されている『本土寺過去帳』には、300年に渡る関東における死者数の推移が記録されている。その推移をグラフにすると、極端に死者数が増加し「山」や「峰」を形成する時代が散見される。こうした「山」や「峰」が形成される年代は、他の史料から飢餓のあった年代と一致していることが判明しており、飢饉による餓死が極めて多かった可能性が示唆される。こうした日本中世の飢餓の多さの原因の一つとして、農業基盤の脆弱さが指摘される。 「飢饉の一覧」も参照 この過去帳に記録される、中世における餓死は季節において一定の差異を見せる。餓死者が最も多くなるのが、旧暦の春から初夏にかけてである。春から初夏にかけての端境期が、食料が底をつく季節であることがその理由である。そして、それは「中世の地域に生きる人の一般的なあり方」でもあった。夏麦の収穫季節である5月を越えると、餓死者の数は劇的に減少している。夏麦の収穫により飢えが緩和されることが餓死者減少の理由である。中世の日本は寒冷化と飢餓に襲われた社会であり、春になると毎年のように顕著な食料不足に陥り、慢性的な飢餓に襲われていた。 日本では第二次世界大戦を通して、戦死者よりも多い数の餓死者が発生した。太平洋戦争における日本兵の死者は250万人だが、この内、7割もが広義での餓死者であり、太平洋戦線において戦域が拡大し過ぎ、兵站が絶たれたため、これらの餓死者が続出することになるが、別の地域(内国や遊兵)では、配給上、食料過多におちいる兵士も出ている。 終戦直後には、法令遵守の立場からヤミ米を拒否し、配給だけで生活しようとして餓死した判事、山口良忠が有名となった。食糧管理法を遵守して餓死した者として、山口の他には東京高校ドイツ語教授の亀尾英四郎、青森地方裁判所判事の保科徳太郎の名が伝えられている。 一方当時と比べ、飽食とも言われる世であるはずが、生活保護を受けず、あるいは受けられずに餓死する例、子供が保護者から虐待を受け食事を与えられずに餓死する事件、拒食症が原因で餓死する事例が発生している。前者の例は格差の増大の例とされることもあり、拒食症の事例では、拒食症患者全体の2割が自殺も含め、最終的には死亡に至っている。 また、2017年人口動態統計によると「食糧の不足(X53)」の死亡者数は22人(男性:17人、女性:5人)である。 「生活保護問題」も参照
※この「日本における餓死」の解説は、「餓死」の解説の一部です。
「日本における餓死」を含む「餓死」の記事については、「餓死」の概要を参照ください。
- 日本における餓死のページへのリンク