日本における定型詩とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日本における定型詩の意味・解説 

日本における定型詩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:35 UTC 版)

定型詩」の記事における「日本における定型詩」の解説

日本では押韻発達しなかったが、音節の数を基本的な音数律とする定型詩発達した。すなわち、「五・七・五七・七」の31音からなる和歌短歌)や、「五・七・五」の17からなる俳句川柳である。七五調五七調からなる新体詩定型詩範疇に入る。 和歌成立に関して現代でも詳らかになっていないが、7世紀飛鳥時代)の舒明天皇期には既に定着しており、成立それよりも遡るとされる『古事記』『日本書紀』時代記紀歌謡には、既に短歌形式見受けられる作品もあるが、この時点では揺籃期とみなせる。だが8世紀『万葉集』になると、既に「五・七・五七・七」の形式全体の9割を占めるようになっている室町時代和歌から俳諧独立し江戸時代には俳諧母体に、松尾芭蕉らにより俳諧発句のみを独立して創作鑑賞する概念生まれた。これを明治時代正岡子規らが詩の一形式として独立させたのが俳句である。 明治時代以降になると、従来音数律従わない自由律発展見せた前田夕暮などが自由律短歌を、河東碧梧桐荻原井泉水らが自由律俳句提唱している。 ただし、自由律登場により従来定型廃れることはなく、自由律一つ形式として認められてはいるものの、歌壇俳壇は「五・七・五七・七」「五・七・五」といった定型依然として中心である。 金子光晴定型詩について繰り返し何度も書き定型押韻魅力について語っている。金子はとくに高踏派パルナシアン)の詩や、ゴーチェの詩や、ボードレールの詩など、本物定型詩をいやというほど知っている人である。金子第一回渡欧から帰ったのは、大正口語自由詩全盛時代で、若い金子はその跋扈ぶりに憤りすら感じて「楽園」という自由詩批判的な雑誌作ったりした。しかし金子定型詩陥穽をも知悉していて、「うしろ向き」にならないように、「意気がり」にならぬようにと説いた飯島耕一によれば日本語の詩に定型求め議論40年一度回帰するという。それをうけて君野隆久は以下のように整理している。 1900年前後正岡子規岩野泡鳴実作論考 1940年前後九鬼周造押韻論やマチネ・ポエティク実作 1980年代末飯島自身が関わった定型論争

※この「日本における定型詩」の解説は、「定型詩」の解説の一部です。
「日本における定型詩」を含む「定型詩」の記事については、「定型詩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日本における定型詩」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本における定型詩」の関連用語

1
10% |||||

2
10% |||||

日本における定型詩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本における定型詩のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの定型詩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS