日本における学童疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 17:57 UTC 版)
1944年、連合国軍による本土空襲が始まった(北九州の八幡空襲)直後、1944年8月4日、東京都から学童疎開第一陣が出発し、7月の緊急閣議で急遽疎開決定した沖縄県の学童は8月中旬、大阪市からは8月末に移動を始めた。以上の地域以外にも、横浜市、川崎市、名古屋市、尼崎市、神戸市と今の北九州市(当時は門司、小倉、戸畑、若松、八幡の各市)から周辺県への疎開が9月末までに集中的に行われた。疎開児童総数は40万人以上だった。 写真集や、その他報告は数多い。沖縄の学童疎開では、対馬丸事件で犠牲者がでたが、与那原国民学校の学童と引率者は1944年8月15日学校を出発、長崎港に到着し、熊本県日奈久町の温泉旅館に移動した。日奈久国民学校で授業を受けたが、1945年6月再疎開となり、1946年10月に帰宅した。第2班は、室戸丸で鹿児島港を経て、熊本県湯浦町に到着した。東京都長官大達茂雄は「帝都の学童疎開は将来の国防力の培養でありまして学童の戦闘配置を示すものであります。」と都の国民学校校長会議で1944年発表。「学童疎開衛生注意事項に関する件」で肢体不自由児や、伝染疾患(結核、重症トラホーム)、喘息、てんかん、ひんぱんな夜尿症、性格異常、その他集団生活に適さない者とされた児童は学童疎開から除かれた。国家総動員法で盲学校生徒は兵隊のマッサージ、聾学校生徒は騒音の工場勤務が出来たが、肢体不自由児は兵隊にも銃後にも不要とされた。
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