日本における動力機初飛行とは? わかりやすく解説

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日本における動力機初飛行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 05:32 UTC 版)

徳川好敏」の記事における「日本における動力機初飛行」の解説

1910年12月14日代々木練兵場現・代木公園)において滑走試験中の日野熊蔵飛行成功し、これが日本国内初の動力飛行機の初飛行とされる。しかし、初飛行根拠となっている距離は「初飛行」を報じた萬朝報記事内の60mは記者の目測でしかなく、取材していた他9紙は距離を記載しておらず初飛行とも報じていない。また、当時欧州数少ない実際飛行見たことがある日本人であり、飛行機研究第一人者だったこともあって、事実上現場責任者として間近注視していた田中館愛橘博士や、実際に操縦した日野自身もこれが初飛行であったとの発言行っていない。記者自身後日、「すこしでも地を離れると、手を叩いたり、歳を叫んだりした。」と書いている。また、飛行」とは翼の揚力機体重量定常的支え操縦者意のままに機を操縦できる状態を指すため、「飛行ではなくジャンプ」であるとして、航空力学的にも初飛行とは言えいとする意見もある。 19日には“公式の、初飛行目的とした記録会が行われ、日野徳川両方成功し、これが改め動力初飛行として公式に認められた。記録会前においては当時天才発明家などと報道されていた日野の方が遥かに有名人であり、新聞記者徳川好敏には直前までほとんど取材活動をしていなかったが、徳川日野の順に飛んだため、“アンリ・ファルマン機を駆る徳川大尉日本初飛行ということにされている。これは、徳川家血筋ありながら没落していた清水徳川家徳川好敏に「日本初飛行」の栄誉与えたいという軍および華族らの意向だったといわれている。ただ、たとえ名家出身であっても陸軍方針として軍内部での扱い表面上は平民と同じであった事、またこの時期清水徳川家没落状況は、先代徳川篤守経済的に困窮し爵位返上し、また禁固刑下されるなど不名誉な状態であったため、この指摘は適切ではないとする意見もある。ただそういう状態であったために、徳川御三卿一家の名誉回復の、またとないチャンスであったのは事実である。ともあれ日野記録抹消され12月19日徳川飛行をもって日本初飛行の日」とされている。 以降徳川陸軍航空機畑の看板として順調に引き立てられ滋野清武らを排除して出世した滋野飛行免状世界中で通用する万国飛行免状徳川フランス国限定操縦士資格免状より格上であり、更に滋野の方が飛行技術教え方もずっと上だったことが徳川は気に入らなかったと言われている。いびり出され滋野フランスへ渡り第一次大戦エースパイロットとなる。一方日野翌年自身設計機体日野飛行機開発するがそれでも左遷され以降軍務において航空機関連用いられることはなかった。

※この「日本における動力機初飛行」の解説は、「徳川好敏」の解説の一部です。
「日本における動力機初飛行」を含む「徳川好敏」の記事については、「徳川好敏」の概要を参照ください。

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