日本で初めての美容専門学校とは? わかりやすく解説

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日本で初めての美容専門学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:50 UTC 版)

美容師」の記事における「日本で初めての美容専門学校」の解説

大正2年(1913)、山崎晴弘(山崎富栄の父)がお茶の水立ち上げた東京婦人美髪美容学校』(お茶の水美容学校)が最初に認可され結髪技術教授目的に「女髪結」の師匠たちによって設立された。「美髪」はこの当時美容」という用語が一般的でなかった為、理髪業界がその技術向上を図る目的設立した大日本美髪会(明治39,1906)から引用した考えられる教科美顔術理髪師大場秀吉芝山兼太郎ルーツ今日エステ源流)があり、女髪結近代化原点皮膚の生理病理及び衛生管理など医学的知識習得にあった考えられる。さらに特筆すべきは、東京大正11年(1922)に肌と髪の手入れ法(北原美容術)や化粧法を教授する専門校として、日本女子美容術学校北原十三男によって設立されている。他の府県では、大正4年(1915)大阪美髪女学校(現大阪美容専門学校)や大正13年1924神戸美髪九十九学校(現BEAUTY ARTS KOBE 日本高等美容専門学校)などが設立されている。大正期都市一般大衆の生活の欧風化が進展し女性の社会進出認められ始めた。また女性ファッション主流和装本格的な洋装化第2次大戦後であったとはいえ日本髪束髪衰退傾向見え始めていた。高木女子美学校大正15、1926東京府認可)の教科洋髪技術存在することが、このことを示している。このように認可され学校に対して、無認可学校講習所多く存在した。「美容講習所」(大正2、現マリールイズ美容専門学校)がその一つで、設立者マリールイズウエーブ技術普及によって、日本髪束髪(女髪結)から洋髪美容師)への過渡期における近代美容の礎を築いた考えられる。また業界にあって美容近代化果たした遠藤波津子理容館、明治38、1905)や山本久栄美粧倶楽部明治44、1910)及び山野千枝子丸ノ内美容院大正11)らの功績大きい。「教えない」ことが本音徒弟制度にあった髪結たちが学校設立した裏には「賤業からの脱却」という地位上への熱き思い存在する女性仕事を持つことや女髪結まつわる様々な偏見を少しでも払拭する為に東京女子美学校校則あるよう学校は「結髪二関スル知識技能ヲ授ケ貞淑有為婦人」の養成を担う役割持ったのである刑務所内でも模範囚の場合美容師教育を受けることが可能である。今日美容師専門職として高い社会的評価を受け雑誌など紹介される場合「先生」呼称される場合が多い。

※この「日本で初めての美容専門学校」の解説は、「美容師」の解説の一部です。
「日本で初めての美容専門学校」を含む「美容師」の記事については、「美容師」の概要を参照ください。

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