方おばあさん説
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2008年11月に、芳子は旧満州国警察学校関係者に匿われ、「方姥(方おばあさん)」と名乗って吉林省長春市に住み、1978年に死去したと証言する女性が現れ、調査が開始された。中国メディアも注目し、日本の産経新聞も調査に協力した長春大学講師野崎晃市との詳細なインタビュー記事を掲載した。 2009年3月4日のテレビ信州による報道では、芳子が生存していたと証言する女性が、2009年3月に中国の民間調査団と共に長野県松本市にある松本市歴史の里(川島芳子記念館)を訪れ、芳子の生前の写真を見て「幼少期に教育を受けた方おばあさんと芳子の目と鼻はよく似ているが、断定できるかと言われると言い切れない」と話している。 2009年4月13日放送の『報道発 ドキュメンタリ宣言 昭和史最大のスクープ 男装の麗人・川島芳子は生きていた! 2時間スペシャル』(テレビ朝日放送)によると、死刑の前日に買収された軍人から「執行兵の銃は空砲です、銃声と共に倒れる振りをして下さい」と芳子に説明があり、死刑は通常どおりの公開処刑ではなく非公開で行われ、アメリカ人記者2人だけが立ち入りを許可されたがカメラを取り上げられ、芳子の処刑直後に遺体は毛布に包まれ、検死室に送られた、との事である。数時間後に肩まで髪が伸びた女性の遺体が芳子の遺体とされ、公にさらされた。余命いくばくもなく、芳子の身代わりとなった女性の遺族には金の延べ棒10本が渡され、役人や軍隊にも贈賄されたという。この記録はアメリカ国立公文書館に保存されていたと報道され、金の延べ棒は「おそらく愛新覚羅家が用意した」と芳子の遠縁にあたる愛新覚羅家の人物が答えているとされる。 1948年、旧満州国警察学校関係者に連れられた老婆に変装した芳子は、ゆかりのあった元満鉄幹部の日本語通訳の男性の家を突然訪れ、以後はその男性に匿われ、夏の数ヶ月を長春近郊の新立城という小さな村で過ごし、冬になると浙江省にある天台宗国清寺で隠れるように生活していたという。 芳子は村の人たちから「方おばあさん」と呼ばれており、この女性に幼い頃育てられたという、1967年生まれの女性画家が登場した。この女性は「方おばあちゃんは李香蘭(山口淑子)のレコードが擦り切れるほど聞いていた」と証言し、「このレコードをいつか李香蘭に届けてほしい」と遺言されていたとコメントした。女性は実際に来日して山口に面会し、遺言のレコードを手渡した。その際、山口は方おばあちゃんの肖像画を見て「高くスッとした鼻筋は、お兄ちゃん(芳子)に間違いない」と証言した。 証言女性によると、方おばあさんは殆ど家から出ることもなく、家で写経をしたりお経を読んで過ごしていた。訪ねてくる人も殆ど居なかったが、誰かからの援助を受けていたらしく、生活に困っていた様子はなく、決して贅沢な暮らしではないが常に身奇麗にしていたという。 方おばあさんは1978年に死去し、葬式では本人の遺言どおり匿った男性と養育された女性が『蘇州夜曲』を歌って見送り、三回忌の後、国清寺に葬られた。国清寺では「帰依証」も授けられており、お寺の人たちからは方居士とよばれていた。
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