新疆遠征までの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:29 UTC 版)
「ヤクブ・ベクの乱」の記事における「新疆遠征までの経過」の解説
1872年7月、清朝の内部では依然としてヤクブ・ベクの対応について争議がなされていた。主戦派である陝甘総督左宗棠は“事は国の大事および外国との関係にかかわり、適当にではなく徹底的に解決する必要がある”と主張し受け入られ、兵を率いて蘭州に進駐し新疆(東トルキスタン)討伐への準備を開始した。 左宗棠は戦略的な準備工作を丹念に行い、「緩進急戦」と呼ばれる戦略をとった。「緩進」とは1年半の時間かけて屯田を行い兵糧を蓄え、同時に軍の整頓を行うことで、西征の参加を躊躇する者は給料支給の上で本籍へ送還され、志願兵のみが残った結果士気が高い精鋭軍ができ上がった。「急戦」とは当時貧しい国庫の状態を考慮し、戦闘が開始次第に速戦即決を努め1年半以内の時間で全勝を収める作戦である。 左宗棠は軍費を白銀8百万両程度と見積もったが、余裕を持たせ朝廷に1千万両を求めた。当時の財政大臣であった沈葆楨は地方からこの費用を集めようとしたが、これでは時間がかかる上に全額集まるどうかも怪しいのは目に見えていた。しかし軍機大臣の文祥(ウェンシャン)が同治帝及び摂政である西太后に陳情し、皇帝の支持を受け国庫から5百万両が捻出され、また諸外国から5百万両を借款する承認を賜り、1千万両の軍資金をまかなうことができた。 また大英帝国及びロシア帝国から新式の武器の供給を受けていたヤクブ・ベク軍に対抗するため、左宗棠は蘭州に武器製造廠である「蘭州製造局」を設立した。彼は広州や浙江から武器製造のエキスパートや職人を招き、外国の技術を取り入れ新式の武器の製造に成功した。それと同時に、左宗棠は蘭州に「甘粛紡織総局」を設立した。これは中国における最初の機械的な紡織工場である。 1874年、新疆出兵に対し朝廷内でまた争議が発生した。「海防派」と「塞防派」の海防・塞防論争である。李鴻章に代表される海防派は新疆を放棄し、資金を海防に回すことを主張、彼は乾隆帝の新疆平定から百数十年あまりの間、統治維持のために毎年数百万両の白銀が費やされていることを指摘し、国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人の条件をのみ、ヤクブ・ベクの独立を認め朝貢させればよいと主張した。一方塞防派である左宗棠は、新疆を失えばかの地は必然的にイギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失いかえってもっと多くの兵力を西北防御に費やすことになり、新疆を失えば国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえかえって海防に支障をきたすことになるだろうと主張した上奏文を1875年に提出した。結果、左宗棠と同様な見解を持っていた軍機大臣文祥の支持もあり、光緒帝及び摂政西太后は左宗棠に同意した。左宗棠は欽差大臣に任命され、金順を副将に、新疆討伐が決まった。
※この「新疆遠征までの経過」の解説は、「ヤクブ・ベクの乱」の解説の一部です。
「新疆遠征までの経過」を含む「ヤクブ・ベクの乱」の記事については、「ヤクブ・ベクの乱」の概要を参照ください。
- 新疆遠征までの経過のページへのリンク