新幹線の完成
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1960年代に入ると、東海道本線の輸送量は限界に達した。東京駅から西に向かって毎日60本以上の優等列車が走り、そのすき間をたくさんの貨物列車とローカル列車が埋めた。この事態解決の手段として、新規に国際標準軌による別線を建設し高速電車を走らせる「新幹線」計画が策定された。この計画は1959年3月に国会で承認されたが、世界の鉄道が未経験の「時速200 kmを超える定期列車」という高い目標にもかかわらず、5年後の1964年に完成させるという短期間の計画であった。このため実際の路線の一部を前倒しで完成させ、そこで試作車両を実際に走らせて車両や施設の確認試験を実施し、その結果に基づいて本番用の車両や施設の構想を固めてゆくという方式がとられた。この試験線は神奈川県西部にモデル線として建設され、一般にも公開された。当時、時速200 kmで走る新しい鉄道に「夢の超特急」というフレーズが付されたが、十河信二総裁と島秀雄技師長の指導と国鉄職員の努力の結果、1964年(東京オリンピック開催の年)に東海道新幹線が開業した。開業当初は東京-大阪間に4時間かかったが、翌年路盤が安定するのを待って3時間10分に短縮した。新幹線の開業によって在来線(東海道本線)の昼行長距離列車の需要は無くなり、貨物列車とローカル列車が走る路線となった(十河と島は新幹線の開業前に建設費の暴騰の責任を取って辞任し、開業セレモニーには招待されなかった)。
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新幹線の完成
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1964年10月1日、東京駅の東海道新幹線ホームで挙行された出発式には、国鉄は十河も島も招待しなかった。十河は自宅のテレビで見守っていたそうだが、当日10時からの国鉄本社での開業記念式典には招かれ、昭和天皇から銀杯を賜っている。しかし、後々に十河や島が「新幹線の父」と呼ばれるに至り、マスコミが彼らを紹介する際には、必ずといっていいほど「国鉄は新幹線の開通式に彼らを招待しなかった」という説明をするようになったため、これは国鉄にとって痛恨事となってしまった。
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