文理科大競技部とは? わかりやすく解説

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文理科大競技部(1930-1949)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:02 UTC 版)

筑波大学陸上競技部」の記事における「文理科大競技部(1930-1949)」の解説

1929年昭和4年)に東京文理科大学文理科大)が創立し東京高師がその附置となったことを受け、翌1930年昭和5年)に東京高等師範学校陸上競技部東京文理科大学陸上競技部に名を改め東京高師文理科合同陸上競技チームとなった。また校友会大塚学友会に改称したチーム名文理科大で統一されたものの、部員東京高師生徒中心文理科大生多くとも1学年3人であった。また東京文理科大学女子高等師範学校卒業生入学資格与えたことから女子学生存在したが、女子入部者はいなかった。なお、東京高師から文理科大への移行期には運動部全体一時低迷したが、1930年昭和5年)の年の日本インカレでは、後に「暁の超特急」の異名与えられる吉岡隆徳100m200mで2冠を達成するなどして早大に次ぐ2位となった。そして翌1931年昭和6年)の日本インカレ念願初優勝飾ったこの年12章31からなる競技部の定款制定し事務所東京高師寄宿舎に置くなどの事項取り決められた。その後1932年昭和7年)、1934年昭和9年)に日本インカレ優勝1938年昭和13年)からは3連覇果たし学生陸上競技界の中心を成すチームとなったこの間1936年昭和11年)に北多摩郡保谷町下保谷現・西東京市東町一丁目)に新競技場建設され(現・文理台公園)、永らく競技部の練習拠点として利用されることになる。 日中戦争先行き不透明となる中、1941年昭和16年)に大塚学友会は解散し新たに全学一致心身修練教育報国気魄涵養実践力を錬成」するために大塚学報国会発足した。その中に鍛錬部」が設けられ陸上競技部陸上競技となった鍛錬部各班は戦況厳しくなる中も活動続けたが、1944年昭和19年以降活動記録がほとんど見当たらなくなる。 東京高師および文理科大の競技出身者は、日本全国学校教師就任し各校生徒陸上競技教え指導者となったそれだけでなく、雑誌体育競技』で最新陸上競技情報技術人々発信し陸上競技専門書著して陸上競技普及努めた終戦までに刊行され陸上競技に関する書籍232冊のうち、競技関係者執筆陣加わっているものは半数以上に上り、特に野口源三郎著『オリムピック陸上競技法』は28版まで増刷されたベストセラーとなった

※この「文理科大競技部(1930-1949)」の解説は、「筑波大学陸上競技部」の解説の一部です。
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