文理科大競技部(1930-1949)
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1929年(昭和4年)に東京文理科大学(文理科大)が創立し東京高師がその附置校となったことを受け、翌1930年(昭和5年)に東京高等師範学校陸上競技部は東京文理科大学陸上競技部に名を改め、東京高師・文理科大合同の陸上競技チームとなった。また校友会も大塚学友会に改称した。チーム名は文理科大で統一されたものの、部員は東京高師の生徒が中心で文理科大生は多くとも1学年3人であった。また東京文理科大学は女子高等師範学校の卒業生に入学資格を与えたことから女子学生が存在したが、女子の入部者はいなかった。なお、東京高師から文理科大への移行期には運動部全体が一時低迷したが、1930年(昭和5年)の年の日本インカレでは、後に「暁の超特急」の異名を与えられる吉岡隆徳が100m・200mで2冠を達成するなどして早大に次ぐ2位となった。そして翌1931年(昭和6年)の日本インカレで念願の初優勝を飾った。この年、12章31条からなる競技部の定款を制定し、事務所を東京高師寄宿舎に置くなどの事項が取り決められた。その後も1932年(昭和7年)、1934年(昭和9年)に日本インカレで優勝、1938年(昭和13年)からは3連覇を果たし、学生陸上競技界の中心を成すチームとなった。この間、1936年(昭和11年)に北多摩郡保谷町下保谷(現・西東京市東町一丁目)に新競技場が建設され(現・文理台公園)、永らく競技部の練習拠点として利用されることになる。 日中戦争の先行きが不透明となる中、1941年(昭和16年)に大塚学友会は解散し、新たに「全学一致心身を修練し教育報国の気魄を涵養し実践力を錬成」するために大塚学園報国会が発足した。その中に「鍛錬部」が設けられ、陸上競技部は陸上競技班となった。鍛錬部各班は戦況が厳しくなる中も活動を続けたが、1944年(昭和19年)以降は活動記録がほとんど見当たらなくなる。 東京高師および文理科大の競技部出身者は、日本全国の学校で教師に就任し、各校で生徒に陸上競技を教える指導者となった。それだけでなく、雑誌『体育と競技』で最新の陸上競技の情報や技術を人々に発信し、陸上競技の専門書を著して陸上競技の普及に努めた。終戦までに刊行された陸上競技に関する書籍232冊のうち、競技部関係者が執筆陣に加わっているものは半数以上に上り、特に野口源三郎著『オリムピック陸上競技法』は28版まで増刷されたベストセラーとなった。
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