文(化)人と秋田美人
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イザベラ・バードは、明治11年7月20日、六郷で富裕な商人の葬儀があることを聞きつけて、警官を介して見学の許可を取り付けた。本覚寺で行われた仁井田甚助 (享年41)の仏式の葬儀に参列し、「未亡人となったとても美しい女性」に言及した。 ブルーノ・タウトは、昭和10年5月25日土曜日、湯沢村の豪農の家を見学し、「この家の主人は、精悍な整った顔立をしていて、フリースランド人そっくりである。」と記し、湯沢村から秋田市に戻った後、「秋田の人々!卵型の顔と美しい鼻、強い顎とをもった快い型の顔立である。この人たちは人の顔をじろじろ眺めるような厚かましい眼付をすることがない。農婦の服装は非常に美しい。」と記した。 秋田魁新報社長式塙三山は斎藤茂吉が秋田を訪ねたとき「朝、宿の前に立っていれば美人をごらんになれますよ」とすすめ、茂吉は登校する女学生の列をいつまでもながめていたという。 大宅壮一は「秋田の美人地帯は田沢湖付近、角館が中心となっている。なるほど、色が白く、瓜実顔で、髪が黒くて長く、輪郭はととのっているが、アクセントがなく、目の動きを欠き、どっちかというと白痴美に近いのが多い。」と記した。秋田当時秋田市助役だった小畑勇二郎秋田県知事は「あの大宅さんが平均点以上といいました」と語っていたという。 司馬遼太郎は湯川秀樹との対談で「秋田美人とよくいいますけれども、これは、明治以後にいわれたことではないか。明治以後に、ああいうコーカサス型の顔をもった造形を美人だと言い出したのは、横浜に外国人が来たりして、ああきれいだな、と思ったところから、秋田あたりにも似たやつがおるなということで、美人の標準が少しかわったんじゃないか。」と述べ、山村雄一との対談で「明治のとき、横浜の生糸相場をやっている平凡な商人が、異人さんの女性を初めて見て、きれいだなと思うんですね。そこで、あれが美しいとしたら、わが国にもいるな、というのが"秋田美人"です。秋田美人なんて、それまでは、もう鼻もひっかけられなかった (笑)。」と述べた。また、司馬は『アメリカ素描』において 「秋田県には美人がいる、などとことさらに評判になるのは、大正末、昭和初期だと私は思っている。外国映画が入ってきて、西洋美人をふんだんに見ることによって、日本人の美人の基準が変りはじめた。同時に、似たようなのが秋田県にいるではないか、とにわかに気づいたのが秋田美人が喧伝されるっきっかけだったのではないかと思うのである。」と記した。 樋口清之は「この県の女には美人が多いが、中年を過ぎると老廃現象がはやく訪れ、でこぼこ顔になる。このでこぼこは暖地性日本人の特色でもあり、信州などの山地労働者にも多く見られる。」「雄物川の上流地方には、典型的な古代京都型美人が見られる。」と述べた。
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