文人・詩人として
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曹操は「槊を横たえて詩を賦す」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの文人たちを配下に集めて文学を奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は建安文学の担い手の一人であり、子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。曹操は軍隊を率いること30数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞にしたという。その記述の通り、現存する曹操の詩は、いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞であり、代表的な作品として『文選』27巻 楽府上 楽府二首に収録された下に記す「短歌行」が有名である。 對酒當歌 人生幾何 譬如朝露 去日苦多 慨當以慷 憂思難忘 何以解憂 唯有杜康(後略) — 『昭明文選』27巻 樂府上 樂府二首 短歌行 曹操の詩に関する後世の評価には、南朝梁の鍾嶸『詩品』下巻 魏武帝魏明帝の「曹公古直、甚有悲涼之句」(古直にして、甚だ悲涼の句)、明の周履靖の「自然沈雄」、陸時雍の「其言如摧鋒之斧」(その言、鋒を摧(くだ)く斧の如し)、清の沈徳潜の「沈雄俊爽、時露覇気」などがある。また、沈徳潜は曹操の詩には漢の空気が残り、曹丕以後は魏の作品であると記している。「月明星稀、烏鵠南飛」の句は宋の蘇軾の赤壁賦にも引かれまた苦寒行は唐の杜甫の石龕詩に利用されている。中国文学研究者の松本幸男は、曹操従軍文学と言うべき作が多いと指摘している。現存する彼の詩作品は多くはないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。 改革開放の父の鄧小平は、三度目の復活を果たした1977年7月、「志在千里、壮心不已」という心境をもらした。老いてなお進取の意気込みを示した言葉は、曹操の「歩出夏門行」亀雖寿(208年頃の作品)という楽府からの引用である。 渡邉義浩はこの中国史上初めての文学活動について、魏王朝を打ち立てる為の政治的な意図も含まれているとし、そしてこの一連の活動によって漢王室を滅ぼす基盤が出来たとする。
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