文人画への貢献と画風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 00:06 UTC 版)
池大雅の才能を見抜き中国文人画を伝え、後にこの大雅により日本文人画は大成する。また徳山玉瀾の師でもあり、玉瀾を大雅に紹介したのも淇園で、両者は画家夫婦として名を成した。更に少年期の木村蒹葭堂にも画技を伝え、画の師として大雅を紹介している。里恭は日本文人画 初期の画人として果たした役割は大きいが、彩色や構図など文人画としては異質な画様だった。中国志向が色濃いものの南宗画の山水画が見出し難く、文人の余技とも言える墨竹図(筆ではなく、指で描く指頭図の技法を用いる場合もある)を除けば、北宗画的な人物図・花卉図を得意とした。後に明石藩の梁田蛻巌は淇園の指頭図を大絶賛している。なお、池大雅は里恭よりこの指頭図を伝授されたが、さらに発展させ掌まで使ったダイナミックな山水図を盛んに制作している。花卉図は、鶴亭や河村若芝などの黄檗宗系長崎派による農彩着色画の影響が強い。
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