支笏洞爺国立公園の指定運動とは? わかりやすく解説

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支笏洞爺国立公園の指定運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/01 09:24 UTC 版)

浜野増次郎」の記事における「支笏洞爺国立公園の指定運動」の解説

洞爺湖温泉観光協会としての任期中1931年(昭和6年)に制定された「国立公園法」により全国12ヶ所の国立公園誕生していたが、戦時色が深まる中、1936年(昭和11年)を最後にストップしていた。北海道では大雪山阿寒指定されていた。 戦後は、連合軍総司令部(GHQ)の占領政策一環という事もありいち早く取り上げられ注目されていた。もともと支笏洞爺国立公園にしようという動き大正時代からあり候補地とされていた。 1946年(昭和21年)には国立公園指定のための促進期成会も発足洞爺地区はその国立公園対象エリア中心的存在として位置付けられるだけに、虻田町では官民一体となってこの指定運動取り組んだ候補地として有力ではあったが「国立公園」の指定となれば様々な関門があり、筋道充分に通しながら、根気強く時間掛けなければ目的達成する事は出来ない萬世閣社長として、そして洞爺湖温泉発展のため、徹夜談合、関係当局折衝重ねるなど多忙極めた札幌市役所事務局連携取り東京厚生省国立公園指定請願の為、今まで培った人脈応援もあり何とか厚生省陳情内容伝える事が出来た。 その陳情から間もなく厚生省から国立公園課長一行現地視察するという通達受けた。増次郎町民喜びも束の間虻田町役場関係者、増次郎全力挙げ知恵振り絞り視察団対策練った。そしてその当日、増次郎始めとする関係者洞爺湖中心とした景観案内し視察団萬世閣宿泊し歓迎の宴」でもてなした宴もたけなわになった頃、暗い湖面灯篭流し視察団歓迎した。この演出には視察団一行も思わず身を乗り出しカメラ持って立ち上がると、会場から飛び出し湖岸の庭からシャッター切った。この灯篭流しは増次郎および関係者苦心の末の演出であった地元関係者そして増次郎苦労のすえ1949年(昭和24年)5月16日支笏洞爺国立公園」は誕生した羊蹄山樽前山有珠山昭和新山活火山支笏湖洞爺湖倶多楽湖の湖、定山渓温泉登別温泉カルルス温泉洞爺温泉温泉を含む993.02km2がそれである。この指定洞爺湖温泉戦争打撃から立ち直る上で大きなきっかけとなり、日本経済復興歩調合わせながら、以後目覚しい発展遂げのである

※この「支笏洞爺国立公園の指定運動」の解説は、「浜野増次郎」の解説の一部です。
「支笏洞爺国立公園の指定運動」を含む「浜野増次郎」の記事については、「浜野増次郎」の概要を参照ください。

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