支笏洞爺国立公園の指定運動
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「浜野増次郎」の記事における「支笏洞爺国立公園の指定運動」の解説
洞爺湖温泉観光協会長としての任期中に1931年(昭和6年)に制定された「国立公園法」により全国に12ヶ所の国立公園が誕生していたが、戦時色が深まる中、1936年(昭和11年)を最後にストップしていた。北海道では大雪山と阿寒が指定されていた。 戦後は、連合軍総司令部(GHQ)の占領政策の一環という事もありいち早く取り上げられ注目されていた。もともと支笏・洞爺を国立公園にしようという動きは大正時代からあり候補地とされていた。 1946年(昭和21年)には国立公園指定のための促進期成会も発足。洞爺地区はその国立公園対象エリアの中心的存在として位置付けられるだけに、虻田町では官民一体となってこの指定運動に取り組んだ。候補地として有力ではあったが「国立公園」の指定となれば様々な関門があり、筋道を充分に通しながら、根気強く時間を掛けなければ目的を達成する事は出来ない。萬世閣の社長として、そして洞爺湖温泉の発展のため、徹夜の談合、関係当局と折衝を重ねるなど多忙を極めた。札幌市役所の事務局と連携を取り、東京の厚生省に国立公園指定の請願の為、今までに培った人脈の応援もあり何とか厚生省に陳情内容を伝える事が出来た。 その陳情から間もなく厚生省から国立公園課長の一行が現地視察するという通達を受けた。増次郎や町民の喜びも束の間、虻田町役場、関係者、増次郎は全力を挙げ、知恵を振り絞り、視察団対策を練った。そしてその当日、増次郎を始めとする関係者は洞爺湖を中心とした景観を案内し、視察団は萬世閣に宿泊し「歓迎の宴」でもてなした。宴もたけなわになった頃、暗い湖面に灯篭流しで視察団を歓迎した。この演出には視察団一行も思わず身を乗り出し、カメラを持って立ち上がると、会場から飛び出し湖岸の庭からシャッターを切った。この灯篭流しは増次郎および関係者の苦心の末の演出であった。 地元関係者そして増次郎の苦労のすえ1949年(昭和24年)5月16日「支笏洞爺国立公園」は誕生した。羊蹄山、樽前山、有珠山、昭和新山の活火山、支笏湖、洞爺湖、倶多楽湖の湖、定山渓温泉、登別温泉、カルルス温泉、洞爺温泉の温泉を含む993.02km2がそれである。この指定は洞爺湖温泉が戦争の打撃から立ち直る上で、大きなきっかけとなり、日本経済の復興と歩調を合わせながら、以後の目覚しい発展を遂げるのである。
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