撃墜体験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/23 10:58 UTC 版)
「ジョージ・H・W・ブッシュ」の記事における「撃墜体験」の解説
太平洋戦争で撃墜されたアベンジャー雷撃機の名前は、後の妻の名前である“バーバラ”だった。1944年9月2日9時前、父ブッシュは軽空母サン・ジャシント から友人であるスタンレー・ブッチャーらが搭乗した僚機3機と護衛のヘルキャット数機共に発進し、父島の無電塔爆撃任務についた。この無電塔はアメリカ軍の通信を傍受し、本土に空襲の警報を発していたため、アメリカ軍にしてみれば何としても破壊しておく必要があったのである。 父ブッシュのチームは機長のブッシュ、二等通信士ジョン・デラニーと代理銃手(情報将校)ウィリアム・ホワイト中尉の3人であった。本来父ブッシュの機“バーバラ”の銃手はレオ・W・ナドーであったが、この日は出撃の直前に島の視察を望んだホワイトに交代するよう命じられたため出撃しなかった。彼は前日に父ブッシュたちと父島の砲台を攻撃し、これを破壊する戦果を上げていた。父ブッシュたちの向かった攻撃目標は山岳地帯に隠された砲座によって守られた危険地帯に存在し、父ブッシュたちの機は激しい攻撃にさらされた。父ブッシュはそれでも爆弾槽を開け目標に四個の爆弾を投下したが、乗機バーバラは被弾し、炎上した。父ブッシュは屈せず、サン・ジャシントへの帰還を試みたが機のコクピットが炎と煙で満たされたため、高度1500フィートの地点でパラシュート脱出した。同乗者のうちホワイトは既に死亡していたか、爆風による負傷のため脱出できず機体と運命を共にした。デラニーは脱出には成功したもののパラシュートが開かず戦死した。父ブッシュは無事着水し生存した。 すぐさま彼を捕獲するため日本軍舟艇が出動したが、僚機(機体名不明)のダグ・ウェスト中尉(職種不明)が舟艇を機銃掃射し、上空にいた戦闘機が撃墜を通信したため難を逃れることができた。通信から数時間後、島から15~20マイルの海域を哨戒していた潜水艦フィンバック(艦長ロバート・R・ウィリアムズ)が到着、父ブッシュは他の4人のパイロットとともに救助された。このときの救助の光景はフィンバックの写真撮影助手であったビル・エドワーズ少尉によって8ミリフィルムに撮影され、後に父ブッシュに贈られた。ホワイトとデラニーの戦死についてナドーは自責の念に駆られたという。ブッシュ、デラニーとチームとして脱出の訓練を積んでいたナドーはホワイトの戦死について、アベンジャーの砲座には砲手用のパラシュートを保管・着用するためのスペースがなく、彼が脱出する場合には砲座から出た上で、デラニーからパラシュートを受け取る手順になっていたこと、不慣れなホワイトが砲座から脱出するのに時間がかかったであろうことが彼の戦死の原因では無かったかと語っている。 救助された父ブッシュ他4人のパイロットはその後1ヶ月、潜水艦の目として撃墜されたパイロットを発見する任務に就いた。翌日には早くも母島上空で撃墜された空母エンタープライズの搭乗員・ジェームズ・ベックマン中尉を救助する戦果を上げた。彼らは交代で4時間ずつ飛行し、8時間休息するというローテーションで働いた。一月後父ブッシュほかのパイロットたちはニューヨークでフィンバックを下艦し生還した。その後父ブッシュらのパイロットはハワイに移された。彼らはそこで二週間の休暇を与えられることになったが、父ブッシュは早くサンジャシントに戻って出撃することを希望し艦に戻った。 なお、この時他にも4機のアメリカ軍機が撃墜されたが、搭乗員の8人のアメリカ軍兵士捕虜の内5人が小笠原事件において処刑された後に食人されたとされ、ブッシュの対日観に長く影を落としたといわれている。ある席で「初めて日本人を許す気になった」と語ったという話がある。ブッシュ機を撃墜した砲台は、乱戦の最中ということもあり、特定できなかった。 ただし当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の土屋公献は事件について証言し、食人などの事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している。
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